ACIMタッチアンドゴー

奇跡のコースに復帰してのあれこれ

FACIM読書会 6月 JTT Ch.10 (その1)

6/6。 

今月の読書会ですが、諸事情によりオンライン開催も含めて今後の開催がやや困難な事態に...。 急遽みんなで作戦会議しまして、進め方をさらに柔軟なものに変更しました。そもそも各自が自発的にJTT本を読んでいる会なので、ちょっと会えなくなった位で慌てることはないんだけど、ちょっと動揺案件でした(^^;)。でも、外的な環境がどうあれ、今まで通り続けていきます。

私からはJTT本10章の要約シェアです。ちょっと長めですが、今回は2分割にします。

 

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

 

★Chapter 10 -- The Idols of Sickness p31 (No.9190)

 

Separation and Sickness p32 (No.9230)

No.9266/p33 We see again that sickness has nothing to do with the body...
・ここでも、病気が肉体とはなんの関係もない事が見てとれる。私たちが肉体的に病気と信じるのは偶像崇拝の一形態。なぜなら病気は”私たちの外側に建康を奪い去る力がある”と断言するから。
・病気とは決して肉体的に表現される症状のことではなく、私たちの外側に何かがあるという狂った信念である。Jは、心の歪んだ思考体系の方に私たちの注意を向けさせてくれているのであって、肉体の歪んだ体験(単なる投影に過ぎないもの)の方ではない。

No.9329/p35 This is Jesus’ gentle demonstration, one of many places in the Course...
(T-10.III.10:4)「あなたが自分の神々にどれほど耳を傾けているか、そして、その神々を守るためためにどれほど警戒しているかを、あなたは自覚していない」より:
・これはJの穏やかな抗議であり、私たちにこう語りかけている。
「あなたは”自我の声など聞いてない”と思っているかも知れないが、あなたはまさにそうしており、このコースを学習する事でさえ偶像崇拝となっている。なぜなら、コースを学ぶ事でより幸せな人間になれると考え、私の教えを個人的自己の栄誉に用いているからだ。だが、もしあなたが真に私に従うなら、かつての憎悪に満ちた自己は赦しに満ち、穏やかに神の栄光へと還るだろう。コースはそのための踏み台であり、目覚めに到達するための手段である。自我の分離の夢の中でより幸せな人生を送るための手段ではない。」

No.9344/p35 We all have trouble with this course. Our egos do not want to hear...
・私たちは皆、このコースに対して問題を抱えている。私たちの自我は「この物理的な宇宙のみならず、熱心なACIM学習者だと思っている自己でさえも、無にすぎない」といった話は聞きたくない。私たちは、私たち自身が実在することが事実であると信じるために、懸命に神の実在を否定している。
・真実を受け入れることに対する抵抗を乗り越えるには、Jが提示する形而上学的な原理を、個人的な体験にまで適用する必要がある。私たちの人生 -- ACIM学習者としての人生でさえも -- 偽りの偶像崇拝を反映したものに過ぎない、ということに気づくこと。そのような気付きこそが、究極にはそれら(偶像崇拝)に反して聖霊を選択することを可能にする。

No.9417/p37 The principle is one or the other, and we are terrified of God’s will...
・自我の原理は「どちらか1つだけ」であり、私たちは神の意志におののいている。なぜなら神のもとでは「私」が存在し得ないから。一方、私たちが病気の神を崇拝する「神聖ならざる瞬間」においては、個人的な自己こそが確実に存在し、神は存在しない。

No.9423/p37 This is not a course about throttling, outsmarting, or triumphing over the ego...
・このコースは、自我を絞め上げたり、自我を出し抜いたり、自我に勝利するためのものではない。それはただ自我を見つめるためにある。そして、それが実在しないという静かな認識とともに微笑む:「奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである(W-pII.13.1:3)」
・奇跡が私たちに教えているのは、惨状を攻撃したり癒したりしようとするのではなく、ただ微笑みながら「これは無である」と言うこと。結局のところ、存在しないものと対峙することは道理に叶わないのだから。

No.9429/p37-38 Again, we need only look at the ego, for not looking is what preserves the...
・繰り返すが、私たちが見る必要があるのは自我だけである。そもそもそれを見ない事が、自我の思考体系に内在する非実在を保持し続けているのだから。
・Jは、私たちが日常的にこうするようにと告げている:「私のもとに、”あなたの考え / 病気の神への崇拝 / 特別性の神殿” を持ってきなさい。私はそれを攻撃しないし、罰することもないし、叱責もしないし、それに対する戒律を与えたりもしない。私があなたに頼んでいるのは、ただこれらの幻想を私のもとに運ぶことで、それを共に見ようということ。そうすればあなたにも、神の王国に攻撃があり得ると信じる事の馬鹿馬鹿しさが見えるだろう」
・私たちはJと繋がることで、彼の穏やかな微笑みを学び、私たちが神の愛から離れることなど一度もなかったという事に気づけるのだ。

No.9515/p40 This denial of God is the sickness, and the world is a product of that sick thought...
・「神の否定」こそが病気であり、世界というのはその病んだ考えの産物である。病んだ心は眠りに落ち、神を否定するという冒涜を行ったと信じ、その神に代わる他の神々を据えた。
・だがこのことは、夢の中でしか真実にはなり得ない。惑わされた心には”不可能を可能にした”と信じる力があるが、実相においてはそうはならない。

No.9525/p40 It is not what we dream that is the problem, but the fact that we dream at all.
・私たちが”どんな夢を見ているか”が問題なのではなく、そもそも私たちが”夢を見ているという事実そのもの”が問題なのだ。

The Power of the Mind p41 (No.9531)

No.9573/p42 To restate this, we are not fearful of what we have dissociated, but of the very fact...
・私たちは、自分たちが何から解離してしまったかについては恐れてはいない。しかし自分たちが「解離してしまった(しかも2度も)」という、まさにその事実を恐れている。実際、私たちはまず正しい心から解離した。そして次に、世界を作り出すことによって誤った心からも解離した。
・つまり私たちは、どこから分離したかを恐れているのではなく、分離してしまったという事自体を恐れている。

No.9587/p42 This again refers to the power of the mind to choose, one of our symphony’s...
(T-10.2:1-2)「実装は曇りない心のみに明らかになってくる。それはいつでも受け入れられるべくそこにあるが、受け入れられるかどうかは、それを自分のものにしようとする意欲があなたにあるかどうかで決まる」より:
・この箇所は、心の決断の力について触れている。もし私たちが「実相なんて知りようがない」と文句を言うなら、それは実相の責任ではない。私たちが知らないのは、心が「自我の思考(実相を意識から追放する考え)と一体化する」という決断によって曇ったままになっているから。

No.9599/p42-43 The barrier to our knowing Who we are as God’s Son has nothing to do with...
・私たちが「神の子であると知る」ことに対する障壁とは、「知ることを拒否する」という心の力以外の何ものでもない。しかし、私たちが幻想を選んだにも関わらず、真実は私たちがそれを思い出すまで忍耐強く待っていてくれる。
・私たちが全ての断片に神の子を見ることによって、真実はもたらされる。それにより私たちの分離への信念が癒され、もとの自然な全体性への復旧がなされる。

  

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ここまで「病気は肉体のものではなく、神を否定したというまさにその事が病気なのだ」というお話でしたが、長くなってきたので、次回 Chapter10 (その2) に続きます!