ACIMタッチアンドゴー

奇跡のコースに復帰してのあれこれ

傘の貸し借りという夢

8/13。

学生時代の仲間のウオキンとニコちゃんの3人で久々に会ってきました。といっても、こないだ電撃離婚したばかりのニコちゃんは一見朗らかに振舞ってたものの、ややぼーっとしてて以前のようなユーモアに富んだ話し方は影をひそめていました。このとき、ニコちゃんから密会の要望があり、一旦解散したあとにウオキンには内緒で2人で食事することに。。。(ウオキン3人で食事したがってたのに、断ってホントごめん)

 

さて、密会の内容はだいたい想像してた通り、交際の打診でした。俺はこの通り離婚したし、もう不倫にはならないから付き合っても問題ないよね、という理屈のようでしたが、私はそういう短絡的な展開をまったく好ましく思わなかったので、この際、言いたかったことは全部言いました。要約すると:

「いろいろ気の毒だとは思うけど、距離置くって言ったのそっちだし、ちょっと筋が通らなくない? 私が売れ残りの独身女だからって都合のいい安物扱いはしないで欲しい。陰に隠れてこっそり買い叩かれるのはもう御免だし、私はもっと陽のあたる場所で自分に一番高い評価をしてくれる男性を選ぶつもりです。以上。」

(もちろん彼がどん底の状況であることに配慮しつつ言葉は選びましたが…)

 

。。。と強気の姿勢でいられたのは、年初のすったもんだの末に、なんとか彼のことを冷静に見られるようになったお陰ですが。そもそもこのタイミングで交際なんて不倫と大差ないし、そんな気まずい関係を一体誰が祝福できるっちゅーの。だいたい、ニコちゃんよりはるかに付き合いの長いウオキンに隠れてコソコソ会うとかもう沢山だよ。

 

ただし、それはあくまで私の側の視点です。自分が被害者側になるタイプの離婚は私がかつて通ってきた道でもあるので、似たような顛末を辿ることになった彼の絶望的な気持ちは理解できます。それに、彼のアプローチは甘えが透けて見えるけれども、本心では決して私を利用しようとしている訳ではなく、ただあまりに苦しいから助けを求めているだけだという事も理解できるしね。。。(軽々しく交際を持ち出されることに不快感を覚えるのは、どちらかというと私の課題だし)

 

ニコちゃんが白状したところによると、離婚問題が勃発してから今までの2ヶ月というもの、抗不安薬および睡眠薬を服用しなければ日常生活が成り立たない状態が続いているとのこと(それでぼーっとしてたらしい)。あの陽気で元気な紳士だったニコちゃんが、薬の世話になるなんて余程のことだよなぁ。

ちなみに私が16年前に離婚したときは、何も食べられなくなって体重は30kgを切る寸前まで行き、社会活動は不可能でした。幸いにも当時無職だったので、実家のベッドで来る日も来る日も、ただ天井を見つめながら自分を責める日々だったのを覚えています。

そして今のニコちゃんは、あの頃の私と同じフェーズを通過しながらハードな仕事を続けているわけで、その大変さは私の想像を超えてます。とりあえず今は使えるものは薬でも何でも使って乗り越えてほしい。

 

思えばあの頃の私も誰かの助けを切望してたので、ニコちゃんが助けを求めるのも分かります。そしてなんの因果か、今回たまたま私が毒にもクスリにもなれるポジションに居るわけで、再び自分の在り方が問われている気がします。(じつは過去に2度ほど、うつ状態で接近してきた男性に噛み付いてボコボコにしたことがあり…。恐れのあまりやってしまった事とは言え、内心後悔してました。今度こそうまくやりたい)

 

まあ今後も、友達だったら当然するであろう応援を私もしていくつもりですが、一方で、私の悪癖である「依存を生むような積極介入」をしないように気をつけようと思ってます。また、引き続き恋愛問題も絡んでますけど、双方のためにならないと直感で分かるような要求には今後もNOと言い続けるつもりです。

 

そして自分の心に目を向けるなら、私はニコちゃんの状況に私の内面を投影しているわけで、彼を自分勝手だと思ったり、気の毒な人だと思ったりすることで、自分自身の闇から目を逸らすことに利用しているのでしょう。いまのニコちゃんを見ていると、自分自身の身勝手さや被害者意識が炙り出されるようで、決して居心地よくはないです(時に怒りすら覚えることも)。

 

ただ、ニコちゃんがその役を演じてくれているお陰で、私のほうも自分が隠してきた闇を見ることが可能になっているとも言えるわけで。。。って、なんだかなぁ。もしこの出来事が私に無関係だったら、そもそもこんな形で関わり続けるわけないもんな。結局はこれも私が特注した教室ということか。。。さすがオーダーメイドだけあって、出来すぎた展開だなぁとは思うけど。

 

*****

さて、帰り際に外に出たら夕立の跡が残ってました。私の地元はもう雨上がりのようでしたが、ニコちゃんは傘を持たずに来てて、しかも彼の新居は駅から濡れて歩くには悲惨な距離なのでした。とっさの判断でしたが、別れ際に私の折り畳み傘を貸すことにしました。
「それ、大事な傘だから絶対返してよね」「うん、わかった。ありがと」

 

帰りのバスに揺られながら、ニコちゃん本当に傘返してくれるかなぁ、貸さなきゃ良かったかなぁ、などと軽く後悔してたのですが、よく考えたら、これもひとつのメタファーなんだなと。
私もかつて、心に雨が降っている時に、身近な友達に傘を貸してもらった事は何度もあります。でも結局、借りっぱなしで返す機会はなかった気がする。だから、いまこうして誰かに傘を差し出す機会が巡ってきたことは、なんだか象徴的だなぁと。

どのみちクスリ漬けの彼には言葉なんかあまり役に立たないし、とりあえず今回はこれで良かったのかな。

 

追記:その後速やかに傘を返して貰えました(^^)  ヨカッタ。

迷走しつつも、お絵描き路線で

8/10。

仕事を辞めて2ヶ月ちょい経ち、あっという間に暑い季節になりました。実家で両親と暮らさせて貰っているとはいえ、黙って息をしてるだけでも国民年金やら何やらで毎月何万円も出て行くし、今までと同じ感覚で外食したり遊びに行ったりするとその分だけ貯金が目減りする一方です。何とかせねば。。。

 

といっても、今すぐ転職を考えるべきだという感じはしません。辞める時もそうだったけど、「やるなら今しかねえ!」というタイミングをハッキリ感じられる時もあるので。その感覚はわりと信頼してるんですけど、それがいつ訪れるかは前もって分からないから結局不安なのです。少なくともいま、実家で時間かせぎできる環境が与えられている状況なので、次のチェックポイントを通過するまでの間、自分が思うベストを尽くしつつ次の転機に備えることにします。

 

迷走しまくりのヤル気

先月、少しイラストに復帰しましたが、あの時の感触は悪くなかったです。ただ「まったく稼ぎにならない落書きより、収益化を視野に入れたブログを作った方が建設的じゃないかい?」という囁きには説得力があり、半月ほどかけてマネタイズの指南書を読み漁ったり、休眠ブログを再起動させたりと忙しくしてました。

 

ただ、この新しく始めたブログが曲者で。。。毎日写真を載せて文章書いたりするのは嫌いじゃないんですが、こっちも何書けばいいのか分からないので超つまらないブログの一丁あがり。こんなん自分だって読みたくないわ。orz

こんなことに毎日何時間も費やしていいのか?と頭抱えるのにそれほど時間はかかりませんでした。とはいえ、ブログ自体は続ける価値がありそうだったので、どうせなら好きな事を勉強しながらやろう!と開き直り、けっきょく収益化からは程遠い「お絵描き初心者」という軸でやってみようと思いついたのがやっと8月に入ってから。

 

このとき「ずっとデザインの現場にいたワタクシ様」という何の役にも立たないプライドを捨てたのが良かったのかも。自分のポジションが入門者であることを受け入れたことで、今まで目もくれなかったようなビギナー向けの解説で学んでみる気になりました。そしたら、単純な図形を組み合わせた初歩的なイラスト練習から学ぶことが驚くほど多かったのです。うおおお、丸とか三角とかだけでも絵が描けるなんて!これなら幾らでもバリエーションが思いつくよ!

 

それでやっと気づきました。今まで「年齢に見合った高度なイラストを描きたい」という気負いがあったけど、要するに腕と経験が伴ってなくて挫折してただけなんだなと。今の自分のレベルは入門者以下なんだと分かったことで、却って世界がひらけてきたような気がしてきました。←気づくの遅すぎだよ。。。

 

そんなこんなで、この新規ブログを足がかりにして、しばらくクリエイティブの勉強をしていこうと思ってます。ただ、このお絵描きブログは諸事情により別管理で運用していく予定なので非公開とさせてください。


といいつつ、1週間だけシェアしてみよかな。。。↓
https://untelepenta.blogspot.com (8/22に消します)

 

それとは別に、今回作ったものでイラストACから無料ダウンロードできる分は以下の通りです:

 

イラストAC:トライアングル背景 ドリーミー (壁紙)
イラストAC:チェック柄 爽やか色 (壁紙)
イラストAC:おうちがいっぱい (壁紙)

初心者レベルからスタートしてどこまで到達できるか分からないけど、  プレッシャーにならない程度に頑張っていきたいと思ってます。。。

 

ゲイリー達のオンライン講座 (22)

8/3。

こちらはオンライン講座 Let me perceive Forgiveness as it is, from ACIM Workbook Lesson 134 のPart 2です。日本時間で7/26に配信された分になります。

前回はゲイリーが調子悪くて席を外すというハプニングもありましたが、今回は元気に復活してました!しかも恒例のハワイのリトリートから戻ってきたばかりだとか。なんと2人ともそこで結婚10周年を祝ったそうです。すてき〜

 

講座の本編
前回はシンディの話がメインだったので、今回は復活したゲイリーの発言をピックアップしてみます。まず本編からひとつ…。

 

[ゲイリー]

(0:49) 赦しは自然に愛へと導くものだ。2000年前にJが放っていた愛は圧倒的すぎて、それは彼の表情にあらわれていた。なかには彼を直視することに耐えられず、目を逸してしまう人もいたほどだ。ベン・ハーという映画に見事なシーンがある。実はこの映画ではJの顔は一度も映し出されないが(素晴らしい演出だ)、Jの存在感が描かれている。ローマ人が「この男に水をやるな」と言って痛めつけていた男に、Jが水を飲ませるんだ。ローマ人は怒り狂ってJをムチ打とうとするのだが、Jの顔を見た途端に静止し、混乱して顔を背けて去っていった。実際のJも本当にそんな感じだった。彼の愛は、敵でさえ止めることができた。

(トベ注:この後に、石打ちで殺されるところだった娼婦をJが救ったという聖書の話は実話だという話が続きますが、聖書的によく知られている内容なので割愛します。ちなみにベン・ハーの映画は何種類もあるそうですが、今回ゲイリーが言及したのは名作と名高い1959年版のベン・ハーだと思います)

 

Q&A

今回は10個の質問への回答がありました。個人的に興味深かった内容を2つほど要約してみます。

 

Q2. 私の赦しの課題は政治です。トランプ大統領は世論を分断させており、文字通り内戦を起こそうとしているように思えます。私は彼を信用できませんが、このことを赦すためのアドバイスをお願いします。

ゲイリー:自分の政治的な利益のために、国民を反目させ合って人々を分断させようとした政治家はトランプだけではない。自分の支持者層が憎しみを向けるための敵を作り出すというのは彼らの常套手段だ。その憎しみが(政治家に)パワーを与える。それは100%エゴのものだ。だが同時に、我々コース学習者としては -- 彼に投票する必要はないけど -- 彼を赦す必要はある。赦しは全てに適用されるべきもので、例外があってはならないからだ。

僕らは、彼の突拍子もない振る舞いを見過ごす必要がある。彼のヘイト思想や差別主義といった狂気を見過ごすんだ。これはあなたの夢であって、真実ではない。あなたは気に入らないかも知れないが、コースはこう言ってる。あなたが彼を嫌だと思う部分というのは、じつは自分自身が隠し持っている罪や憎しみを表している、と。

例えば僕がトランプについて「能無しの馬鹿野郎」と思った場合、本当に能無しで馬鹿なのは僕だということになる。なぜなら僕は天国を捨て、神の平安も投げ捨てたほど愚かだったからだ。コースには「私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない(W-pI.5)」とある。ということは、一見トランプが僕を怒らせるように見えるけど、実は僕が本当に怒っているのはその事じゃない。それは、神からの原初の分離にまで遡る心の中の罪悪感なんだ。そして、もし僕が彼を赦すところまでいければ、それは聖霊によって癒やされることになる。

 

Q5. もしゲイリー達が今生で悟りに達したら、来世でパーサやアーテンとして生きる(=心理的に振り返る)必要はない、という事についてもっと説明して貰えますか? 確か、映画はそのまま続くけど、観客席からは抜けるといった例えだったと思いますが。

ゲイリー:覚えておくべきことは、あなたが見ている映画(世界)は、あなたという個人から発しているのではない、ということ。あなたがスクリーン上に見ているものは「ひとつの無意識の心」から来ている。だから僕らは同じ世界を見ているように感じる。みんなと同じ地球、同じ宇宙、同じ狂ったTV報道を見ているように感じるんだ。

もし映画館に行けば、あなたはこの席、他の人はあそこの席に座ってる。あなたがたは一見別々であるように見える(でも、違うんだ。実は全然別々なんかじゃない。それがトリックだ)。そしてあなたがたは映画館で同じ映画を見ることになる。なぜなら無意識の心はひとつしかないから。

エゴは分離の仕組みを使って心を分割した(本当は心は常に繋がっていて、そのことは変更できないんだけど)。こうしてエゴによって見事に分割されたあなたという存在は、あなたの視点で映画を見ることになる。そして、僕は僕の視点で映画を見ることになる。でも真実には映画はひとつしかなくて、ひとつの無意識しかない。

さて、あなたが悟りに達したとする。するとあなたは立ち上がって映画館を去ることができる。だからって、他の人々が見ている映画に影響を与えることはない。なぜならその映画はひとつの無意識から映写されているからだ。そしてその映画はすでに撮影済みのものだ。コースは僕たちが「過ぎ去ったことを心の中で反芻している(W-pI.158.4)」だけだと言っている。

映画はもう出来上がってしまっているのだから、一人が映画館を抜けても映画自体は変わらない。だって、映写機はひとつしかないのだから。そして、まだ映画を見続けることを選択している他の人々にとっては、同じ映画が続いていくように見える、ということだ。

 

*****

じつは今回、別の質問(Q7)でも別の切り口から映画館の例えがありました。それは映画館に座っているとき、自分の隣にエゴがいて、もう片方に聖霊がいて、エゴも聖霊も同じ映画を見ているけど、全く異なる解釈を持っている、という話でした。映画館、いろんな切り口に使えるんですね。

 

こうした映画館を使った例えは、元々はワプニック博士の著作によく出てくるやつですが、ゲイリー達もよく話してくれるのです。私としては、実感が難しい概念をイメージしやすくしてくれる例えなので割と好きかも。(そして、その例えを聞くたびに、ああそうだったすっかり忘れてたわー!と思うところまで相変わらずなんだけど。。。)

 

とにかく、今回はゲイリーが元気に復活してて良かったです!ハワイのリトリートもお疲れさまでした(^^)

FACIM読書会 7月 - Chapter 1

7/27。

なんとなく毎月やりはじめたFACIM読書会も、少しずつ軌道に乗りつつある感じです。私も少しずつ自分のペースが分かってきました。今せっかく時間もあるし、ひと月に一章くらいのボリュームで進めていこうかなと思ってます。といっても、要約作業も入れると結構な手間なので、無理しない無理しない。。。

 

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.1)
Kindle変換後のNo.と紙本のページを併記してます。

 

★Chapter 1

(前回やったぶんの続き)

No.960/p24 Remember that the body could have been made...
・これが夢なら、我々はもっと完璧な肉体を作っても良かったはずなのに、なぜ身体は故障するように出来ているのか?我々は身体の不完全さの手入れに没頭することで、決して心に戻らずに済む。肉体の不完全さの理由は、エゴが神の子を不完全なものとさせる目的を象徴している。

No.1002/p25 Nontheless, and this will become another significant...
・エゴによる身体への明らかな執着にも関わらず、身体は正しい心(赦し)にも仕えることができる。問題は身体や行動(性的あるいはそれ以外でも)ではなく、それが仕える目的。

No.1038/p26 Throughout A Course in Miracles, Jesus tells us...
・Jは我々に、我々の目を通してではなく彼の目を通して見るように、つまり彼の理解を持って見るようにと言っている。これが心眼(vision)の意味。

No.1113/p28 To restate this, we can always tell which teacher...
・自分がどちらの教師を選んだかは、自分がどう感じるかで分かる。もし平安ではなく、怒りや恐れなどいかなる形でもざわつきを感じるなら、自分がエゴを選んだと分かる。

No.1175/p30 The heart of this course is that we remember the...
・ACIMの心髄は、心の力を思い出すこと。我々がその力を恐れるのはエゴが心の中の罪悪を直視したら大変だと脅すから。そして我々は心の外に居続け、いかにも強大に見える罪悪が実は我々の信念に過ぎないとは気づかない。
・世界の恐ろしい出来事が影響力を持つ事ができるのは「自分は神の真実の代わりにエゴの嘘を信じる」という信念がある間だけ。

No.1232/p32 As we have observed, the text does not progress in...
・テキストは直線的に進むのではなく、交響曲のように構成されている。私達は音楽を頭脳で聴くのではない。作曲家の体験に心を開くことで聴いている。たとえ頭脳がコースの言葉の意味と格闘しながらであっても、Jが作曲家のように先導してくれる。

No.1269/p33 Problems in this world cannot be resolved overnight...
・世界の問題は一晩で解決できるものではない。中東やアフリカの地政学的な問題や、差別問題、貧困、飢え、そして病気 — どれもすぐには解決できない。しかし、これらの問題に関わる個人の葛藤は、被害者意識、恐れ、罪悪感を手放し、Jに違う見方をさせて欲しいと頼むことにより瞬間的に癒される。奇跡はこのようにして時間を節約する。

No.1301/p34 The phrase “thousands of years” is used in...
・私達が戦場の上から見下ろす時、戦いは終わる。果てなき交渉や、協定や、取引や、敵を爆撃して殲滅することなどで問題を解決する必要はない。
・世界の人々は「どうやって奇跡が中東情勢を解決するんだ?」と言うかも知れない。しかし私たちが心の中で戦場の上から、別の見方で世界を見る時に、この教えは意味をもつ。

No.1314/p34 The essence of the principle is that if we give...
・私達が愛を与えれば愛を受け取り、罪悪感を与えればそれを受け取る。誰でも、自分が信じるものを与えずにはいられないし、それを受け取らずにもいられない。 

No.1325/p35 Atonement refers to the Holy Spirit’s “plan” of...
・贖罪とは、聖霊によるエゴ取り消しの計画。断片化されたかに見える神の子一人ひとりが、それぞれの赦しのレッスンを完了するよう(=贖罪を受け入れるよう)呼びかけている。

No.1384/p36 Helen’s understanding of Jesus as well as her...
・ヘレンは過去生においてパレスチナでJと共に過ごした記憶があったが、輪廻転生は信じておらず、彼女のイエス像は聖書に基づいていた。

No.1411/p37 These early references to Jesus seem to suggest...
・コースのはじめで描写されるJはまるで聖書に登場するJだが、実際にはヘレンが理解できる唯一の手段としてそのように語られた。そのためコースには聖書からの引用がたくさんあるが、それはヘレンが聖書でJが言ったとされる言葉を信じていたからであり、実際のJが聖書通りの言葉を語ったという意味ではない。

No.1450/p38 Just imagine of Helen had taken down specific...
・もしヘレンがJの具体的な情報を書いたらなら、人々は再びJを崇拝するようになっただろう。Jの言葉は時空の水平軸ではなく、垂直軸である心の中で捉える必要がある。だから今まで(宗教的に)見聞きしたJの事は脇におき、心の中に住まう「エゴ不在の象徴としてのJ」と繋がる事こそに意味がある。

No.1466/p39 The Atonement thought that Jesus represents is...
・Jが提示する贖罪の想念は人類だけのためにあるのではない。人類とは単に、分離の想念による無数の形態表現のひとつに過ぎない。Jは、我々の人間界での経験をはるかに超える心について、我々にも理解できる文脈を用いて話りかけている事を思い出す必要がある。

No.1507/p40 One of the difficulties students of this course run into...
・特に、長年コースを学習してそれなりの知識や経験を積んだ人が裁きや不満や偏見を持ってしまうとき、彼らは「自分は何年も学んでいるのになぜ進歩がないのだろう?」と自分を責めたりする。しかし真にコースを行うということは、私達の個人としての存在の終焉を意味するので、そんなに生易しいものではない。

 

*****

7月分はここまで。 やっと第1章を抜けられました。 残すは、あとたったの30章ですかね。。。って、順調に行っても30ヶ月かい!Σ(゚Д゚)
まあいいや、焦らずに行こう。

偶然の出会いだったメンバーの皆さんともだんだん打ち解けてきて、今では月イチで再会できるのが楽しみです。私、よっぽど頑張れる動機づけがない限り、こんな電話帳みたいな分厚い本は読まないタイプなので、皆さんには本当に感謝です☆

 

マグダラのマリアによる福音書(2)

7/25。

先に紹介した「マグダラのマリアによる福音書」で、現在のキリスト教において、なぜマグダラのマリアが、よりによって娼婦だの姦淫の女だの言われる羽目になったのか?という事についての解説が興味深かったので、その箇所も紹介したいと思います。

 

そもそも、キリスト教の聖職者にとって独身主義が重要だったのは何となく分かるし、そのためにイエスに妻がいるのは具合が悪かったので意図的に伴侶としてのマリアを排除した、という理屈も分からなくはないのです。けど、その落とし所がどうして「娼婦」である必要があったのか? 救世主が愛した妻という存在を認められないなら、せめて普通の女性信奉者くらいにして扱えば良かったのでは? そこをなぜ、キリスト教的に罪深いとされる娼婦の烙印をわざわざマリアに押し付ける必要があったんだろう? そのへんの飛躍が唐突すぎて私には謎でした。

 

カレン・L・キング博士は、マリアを娼婦とする見方を後世の捏造として一蹴しています。以下、「マグダラのマリアによる福音書」からの引用です。

 

p236
 悔い改めた売春婦というこのマグダラのマリアの肖像はどこから生まれたのか。こうしたヨーロッパの一般的伝統に反して、マグダラのマリアは決して娼婦ではなかった。東方正教会の伝承はこれまで、彼女を娼婦として描写することは決してなかった。彼女は、『マリア福音書』では、初期キリスト教史における彼女の実際の立場に比較的近い役割において登場する。彼女はイエスの最初の重要な弟子であり、初期キリスト教運動の指導者である。他の多くの弟子たちの場合と同様、マリアの人生に関する情報不足が後代のキリスト教徒たちの想像力を刺激したにすぎない。彼らは、自分たちの霊的要求と政治目的によって、彼女の歴史を物語と芸術から丹念に仕上げていったのだ。

 

また、次の箇所では聖書(東方教会)に登場する数多くのマリア達(聖母マリア含む)を引き合いに出し、マグダラのマリア以外のマリアは誰も娼婦とは呼ばれていない事についての恣意性をやんわりと指摘しています。

 

p240-241
 マリアを娼婦や姦淫の女として描く人物像は、彼女がなぜ復活したイエスの体に触れるのにふさわしくないかを説明するだけでなく、女性は霊的性質ではなく何よりも性的特性において見られるべきであるという見解の強化に役立った。こうして、教父たちにとって、この虚構は、同時に2つの問題を解決したのであった。1つはマリアに結びつけられた教えの弱体化、もう1つは指導者の役割を引き受ける女性の能力への卑劣な攻撃である。彼女は伝承の中では依然として卓越した地位を維持し続けたが、彼女の基本財産は差押えられるか、消去されてしまった。
 これまでの簡単な説明は全体として、争点になった諸問題、および、教会教父たちがそうした問題の処理のためにとった立場を正確に反映している。確かに、すべてのマリアたち -- マグダラのマリア、イエスの母マリア、ベタニアのマリア、クロパの妻マリア(イエスの叔母)、小ヤコブとヨセ(またはヨセフ)の母マリア、および、他のマリア -- にきっちりした整理をつけるのはかなり困難である。それでも、東方の諸教会がこれらのマリアの誰かを無名の娼婦または姦淫の女と混同することを決してしなかったことは注目すべきである。教会教父たちの本心やその動機に裁断を下すことは -- 神学的伝統の変遷はかなり複雑であり、関係者にとってさえ十分に明白でない場合が多いので -- 可能ではないが、彼らが意図した結果ははっきりしている。誤りにもとづく彼らのマリア像は、肉体の復活と、教会権力という男性側の特権とをひとつながりにした神学的視点の強化である。彼らはマリアをかけがえのない復活の証人として受け入れたが、女性は男性よりも生まれつき劣っている故に男性の上に立つ権威の座につくべきではないという性差別的偏見に合わせて、彼らに都合のよい福音書の読み方を構想したのである。

 

そして、当時の男性優位の文化的視点から謎の真相に迫っています。現代の女性の視点からこれを読むと「ありえない性差別だわ…」と思ってしまうのですが、もし私が当時の社会で男性として生きていたら、当然このような目で女性を見ていたのでしょう。

 

p241-242 (Part3:Ch.4 使徒集団 --マグダラのマリア)
 彼らはまた、女性を主として性的役割と男性との関係にもとづいて定義するという家父長的落とし穴に落ち込んだ。その結果、女性は処女、妻、母、寡婦、あるいは、娼婦に分類されることになる。処女と母の象徴はすでに別のマリアに振り当てられ、われわれのマリアは既婚者か寡婦なのかわからないままに、それだけで娼婦説の選択肢を利用できる状態におかれていたのだ。もしマグダラのマリアにこの役割が振り当てられていなかったならば、必ず別の誰かがその役割を果たすために創作されたにちがいないのだ。その象徴的な意義があまりにも大きすぎて、無視することができなかったのである。
 イエスの妻であり愛人であったという思惑的な論争から、マグダラのマリアが出現した可能性は早くからあったことは事実である。『フィリポによる福音書』は、イエスが彼女にしばしば接吻していたと述べ、また、『マリア福音書』では、ペトロが、イエスは他の女たち以上に彼女を愛したと断言している。3世紀の教会教父ヒッポリュトスも、エロティックな比喩的表現を用いて、マグダラのマリアを教会の花嫁に見立て、イエスを救い主という花婿として描くことにより、教会とキリストとの親密な関係の寓意として『雅歌(がか)』を解釈した。もっとも、独身主義がキリスト教の権力構造上、重要な位置に高められるにしたがい、このような類の思考に水を差されることになるのだが。しかしそれにもかかわらず、イエスマグダラのマリアとの性的関係は、西欧の歴史をとおして折にふれ表面化してきたのであり、今もなお世間の大きな怒りに、火をつけかねない。

 

なんというか、当時の女性は性的役割に基づいて定義され、処女、妻、母、寡婦、娼婦という分類しか無かったというのは大変アカデミックな表現ではありますが、現代女性としての個人的な印象で言うと「結局のところエロ目線かよ!」とツッコミを入れたくなります。(不謹慎ですんません)

 

って、どうも脱線しました。(^^;)

今回いちばん感銘を受けたのはそこじゃなくて、どちらかというと「現代の聖書研究が既存のキリスト教を揺るがしつつある」ということの方でした。どっぷりゲイリー本にハマってる立場からすると、「マリアはJの妻だった?うん知ってる、そんなの常識だよね」と思ったりするんですが、そのような見解は学術的な根拠に乏しいという事も忘れてはならないと思うので。

たとえば、マリアがイエスの妻であったという話はダ・ヴィンチ・コードの設定で使われてるし、ゲイリー本でもアーテン&パーサの証言によって我々にはお馴染みかも知れないけど、前者は単なる推理小説に過ぎないし、後者はゲイリーのオカルト妄想に過ぎないと言われればそれで終わり。こうした情報源を拠り所とするのは、世間一般からみれば、頭おかしいという事になります。

 

ですが、学術的な立場からその真相に迫ろうとする研究者もいるし、彼らも同じ結論に到達しつつある、ということは世間的な観点からも非常にインパクトのある事のように思うのです。確かに、「マグダラのマリアによる福音書」は、そのほとんどが二元論的な学術考察であり、スピ的な好奇心を満たすものではありませんが、だからこそゲイリー本の見解を補強する学術的な裏付けとして重要な一冊だと感じた次第です。

 

マグダラのマリアによる福音書(1)

7/22。

だいぶ前にマリアさんにオススメされてからずっと気になってた「マグダラのマリアによる福音書」を図書館で借りて読んでみました。こちら絶版になってて中古本がプレミア価格なので入手は断念しましたが、諦めずに借りてみて良かったです。

 

著者のカレン・L・キングは古代キリスト教史の教授なので、この本はややアカデミックな内容となっています。当然ながら学術的な観点から考察されているので、いわゆるスピリチュアル系の本ではありません。しかし、マグダラのマリア福音書が異なる言語でバラバラに見いだされた経緯も興味深いし、それらの断片を繋ぎ合わせたマリアの福音書について、現在知られている限りすべての翻訳が紹介されているのも一読の価値ありです(思ったより短いけど)。また、難解な部分ついては当時の文化的・哲学的背景から詳しい考察があるので、初心者でもフンワリと福音書の全体像がつかめる構成となってます。

さらに、コースを念頭に置いて読めば、学術的な見解とは別に、一元論的な文脈で捉えることもできるように思います。(ただ、この本に掲載されている日本語版は、ギリシア語→コプト語→ドイツ語→英語→日本語...と翻訳を重ねたものだったりするので、どれほど元の意味が再現されているかは想像に委ねられる所もあるかも)

 

ちなみにマグダラのマリア福音書は、いわゆるナグ・ハマディ写本には属していません。しかしその内容は、一般のキリスト教観とは明らかに相容れないもので、謎に包まれた初期キリスト教の一端を垣間見せてくれるだけのインパクトがあると思いました。

その理由を振り返ってみると、子供の頃に読んだ聖書にさかのぼります。キリスト教的な解説によれば、マグダラのマリアは「悔い改めた娼婦」ということになってて、なんだか淫らで罪深い背景の持ち主であるかのように言われてたりするわけです。

 

その後、私の中のそんなイメージを覆したのが2003年に一世を風靡した推理小説ダ・ヴィンチ・コード」で、実はマグダラのマリアはイエスの妻だった、という大胆な設定が世界中の読者を驚かせたのは記憶に新しいところです。 
(ちょっと脱線しますが、この小説への間接的な影響を垣間見ることができるのが、有名なナグ・ハマディ写本のうちの「フィリポの福音書」。2世紀に書かれたこの古文書に、マグダラのマリアはイエスの伴侶だと記されていたことを初めて知りました。本来なら一部の学者だけの関心事だったはずのものが、大衆向けの小説や映画に取り込まれたことで、人々が長く教えられてきたマグダラのマリアの脳内イメージを塗り替えた功績は大きいんじゃないかと想像します。)

 

その後、ゲイリー本を読むに至って、アーテンとパーサが2000年前の過去生の観点から「マグダラのマリアはJの愛する妻だった」と証言した時にはショックはだいぶ和らいでました(ダ・ヴィンチ・コードのお陰で...)。その後、ゲイリー本でマリアについて数多くの言及があり、じつはマリアも(そしてフィリポも) Jと同じレベルの聖者だった事などが明かされるにつれ、少しずつ興味を持ち始めたのでした。

 

というわけで前置きが長くなりましたが、「マグダラのマリアによる福音書」p14の冒頭の一節を少し紹介します:

 

p14
 今日『マリア福音書』を知る者はほとんどいない。それは2世紀の初めに書かれながら、その後、1500年以上にわたって消息を絶ち、ようやく19世紀後半になってコプト語訳の断片写本が発見され、その一部が明るみに出た。発見時の詳細は定かでない。『マリア福音書』の記された5世紀の写本を、ひとりのドイツ人研究者カール・ラインハルトがカイロで入手し、1896年にベルリンに持ち帰ったことが知られている。20世紀に入って、さらに2つのギリシア語の断片が明るみに出たが、依然として『マリア福音書』の完全な写本は不明なままであった。入手されたパピルス写本はわずかに8頁足らずである。このことは『マリア福音書』の大半が、おそらく永遠に失われてしまったことを意味しているかもしれない。
 それでも、われわれは、これらのわずかな断片をとおして、1500年近くも知られずにきた別種類のキリスト教の存在を垣間見ることができる。この驚くほど短い物語は、イエスの教えを根源的に内なる霊的知識にいたる道として解釈し、イエスの苦難と死を永遠の命にいたる道として認めることを拒否している。それはまた、マグダラのマリアが娼婦であったとする誤った見解 -- 神学的創作の一例 -- を暴露し、他のいかなる初期キリスト教文献の中でもマリアが女性の指導者として正統な地位を占めることにたいする最も単刀直入な、説得力のある論議を提示している。


また、別の箇所では、部分的ではあるもののコースの見方に共鳴するような考察も見られます。ACIMの事を全く知らない著者が、マリア福音書を様々な角度から分析した結果、このような結論に至っているのは興味深いです↓

 

p203-204
 『マリア福音書』は、救いにあずかるには苦難をくぐり抜けなければならないとは教えていない。また、罪を犯したから苦難を受けねばならないとも教えていない。これが最終的結論である。このような神学は、怒りの審判者という神観を一切拒否する。神が邪悪な者たちをその罪の故に永遠の苦しみをもって裁いたり、あるいは、恐ろしい死をとおして人間の罪の贖いのために神の子が要求されるなどということをしない。『マリア福音書』は、神を善き方と評しているが、それ以外の表現をすべてはっきりと避けている。救済者の教えの照準は、人間をその罪の故に裁くことにではなく、苦しみと死から人間を自由にすることにむけられている。『マリア福音書』には、地獄の観念が一切ない。キリストの贖いの死、信者たちの殉教、魂にたいする裁きなどに固有の価値をおかないのは、罪といったものが存在しないからである。たとえ言葉遣いや主題において、どれほど共鳴し合うようにみえても、この神学は、他のキリスト教徒のそれとは著しく違っている。

 

なお、この本の中には、ゲイリー本でおなじみの「トマスの福音書」が数多く引用されています(パーサが言うところの、"後世で付け足された" とされる部分も若干含まれてますけど)。また、これまでなじみの薄かった「フィリポの福音書」からの引用もあるので、私みたいなド素人でもナグ・ハマディ文書について少し親近感が湧きました。
(めちゃくちゃどうでもいい話ですが、略語として「マリ福」「トマ福」「フィリ福」などと書いてあるので、見るたびそういう名前の大福を想像してたのは内緒ですw)

 

こんなに興味深い書籍が絶版状態なのは残念ですが、そもそも日本人が関心を持ちやすいテーマではないので仕方ないのかも知れません。しかしキリスト教神学が今あるかたちに形成された経緯も含めて、多くのことを考えさせられる一冊であることは確かです。

キリスト教史やマグダラのマリアに興味のある学習者さんにはオススメかも。 

 

ゲイリー達のオンライン講座 (21)

7/13。

遅ればせながら、7/9に配信されたオンライン講座 Let me perceive Forgiveness as it is, from ACIM Workbook Lesson 134 についてのメモ書きです。

今回もゲイリーとシンディ2人で登場したんですが、ゲイリーが見るからに調子が悪そうで、出だしからずっとうつむいて辛そうにしてました。どうも、今年前半に講演旅行が多すぎたことが、今になって祟っているとのこと。かなり無理してるのは明らかだったので、「ゲイリーお願い、講座なんかいいからはやく休んでー!(゚Д゚) 」と思ってたら。。。

 

[ゲイリー]

(0:15) 皆さん、どうか僕の体調不良を赦してほしい。僕は本当に病んでいるのではなく、病むという夢を見ているのだと認識している。そこには違いがある。僕はこのことをリアルにはしない。すぐに良くなると確信しているが、今はこれ以上続けられないので、シンディに任せようと思う。次回、必ず元気になって埋め合わせにベストを尽くすので、今回はここで失礼させてほしい。この状況についてのご理解に感謝します。皆さんありがとう。(といって退出し、以降シンディが一人で引継ぐ)

 

[シンディ]

(0:18) 皆さんもゲイリーが早く元気を取り戻すことに同意していただけると思います。なので、このまま続けましょう。さっきゲイリーが言ったのは大切なポイントです。具合が悪いときに、そのことを否認して「大丈夫、自分はどこも悪くない」というフリをするのではなく、たとえ具合が悪くても心の中で真実を保つことは出来るのです。むしろ、それこそが重要なところです。今回のテーマの完璧なお手本だと言えるでしょう。

身体がどんな状態であるように見えても、そのことを否定せずに、きちんと自分自身のケアをすること。それと同時に、心の中では真実を知っていること(=あなたは肉体ではないので病にもなり得ない)。コースでは、「知覚だけが病気になり得る(T-8.IX.1)」と言っています。知覚だけが間違うことが可能だからです。

これらの考えを心の中で実践するとき、自分の身体をいたわりながら行うことができます。休みが必要なら休むべきです。普通のことをしましょう。でも同時に、心のレベルで正しい見方をするなら(知覚だけが病気になり得るのなら)、たとえ症状がどうあれ、病気など存在するでしょうか?

このように自分自身についての体験をシフトさせるのがコースの力です。あなたにとっての現実、アイデンティティーとは何でしょう?傷つき得ない神の子ですか?それとも脆い肉体ですか?その選択権は、あなたにあるのです。

 

(0:25) 私たちが赦す必要があるのは、平安を乱すものだけです。多くの学習者が「私は何でも赦します!いいことがあっても、素晴らしい1日でも赦します!お金が儲かっても赦します!」と言いますが、なにも豊かさの象徴まで赦す必要はないのです。そうではなく、私達は心の平安を乱す闇のブロックを見つめ、それを赦すことだけが求められています。良いことは赦すのではなく、ただ祝福すればいいのです。楽しんで、感謝しましょう。それらは、夢の中で愛と赦しを反映するものかも知れません。

 

(0:34) また多くの人が、「相手を赦して赦して、赦し続けているのに報われなくてフラストレーションを感じる」と言います。こんなに頑張っているのに、事態は何も変わらない。相手はずっと同じ振る舞いを延々と繰り返すだけ。こちらはそれでも赦し、与え続けてるのに、何も返って来ない 。。。

そのようにして与え続ける事によってエネルギーを搾取されるように感じる理由は、私たちがそれを「自分でやろうとしているから」です。その赦しが、聖霊を通じてなされていないからです。自分が赦しの意味を知っていると思って相手の誤りをリアルにするのは「破壊するための赦し(S-2.II)」であり、それだと必ず疲労を感じます。自分が不公平に扱われているように感じます。

ですが聖霊があなたを通じて与えるとき、まったく異なるシナリオが展開します。愛は恒常であり、枯渇することがありません。そこには「私」という感覚がありません。もし「私が赦しを行う」と考えるなら、与え続けるばかりで搾取されるように感じるでしょう。しかし赦すのは「私」ではなく、「聖霊」を通じてなされる自然な愛の延長なのです。

 

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というわけでトベの感想です。
ゲイリーが体調不良で講座を休むのはこれで2回目になりますが、カメラの前で本気でしんどそうな姿を見せたのはこれが初めてだったのでビックリしました。でも、今回の彼はあえてそうすることを選んだのだと思います。

 

なんというか、コースの教師を名乗る人は苦痛を感じるべきじゃないとか、何歳になってもスーパーマンのように元気でいるべきだ、みたいな思い込みが自分にもあったことに気付かされた気がします。(でも、もし自分が彼と同じ勢いで世界中を飛び回ってたとしたら、間違いなくもっと早々とぶっ倒れてたと思うので、そういう意味でゲイリーは年齢の割に元気だなぁと思うけど)

 

「自分の身体の調子が悪いとき、どのような心持ちでいるべきか」という誰でも直面する問題について、カッコつけずに体はって教えてくれる人ってあまりいないと思うので、肉体の弱さを晒しながらも揺るぎない信念を見せてくれたゲイリーには感謝したいと思います。そして、そんなゲイリーの体調を気遣いながらも、一切動揺を見せずに最後のQ&Aまでやり通したシンディも素敵でした。

(ゲイリー、早く元気になりますように)