ACIMタッチアンドゴー

奇跡のコースに復帰してのあれこれ

素直に喜べばいいのに

9/4。

ここしばらく、朝から晩までイラストの勉強をする日々が続いていています。それは、新設したお絵描きブログになんとなく1日1作品を投稿することを自分に課しているせいなんですが。。。正直、PCに向かってる時間だけで比較しても、会社で仕事してた時よりはるかに長時間働いてます。ただ、ずっと家で作業してるせいか、夜中までPCに向かってても全然疲れないのはちょっと嬉しい。そんなに頑張ったところで、まったく稼ぎにはならないんですけどね。

 

最近になって、活躍中のイラストレーターさん達をSNSでフォローするようになりました。彼らがハイレベルな作品を短期間で次々とリリースする様子に触れるようになったことが、良くも悪くも刺激になっているのは確かです。「こんなのが描けるようになりたいな」と憧れる一方、「このクォリティに到達しないと絵で稼ぐのは無理なのか。。。」と自分を追い詰めるような、矛盾した気持ちが湧いてきます。(まあ、将来的に絵で稼ぐわけじゃないにしろ、もう若くはないので出遅れ感がハンパない)

 

というわけで、現時点でのモチベーションの大半は現世的な焦りと不安だったりもします。少しずつ絵を描けるようになりつつあるのは嬉しい反面、幸せな絵描きというには程遠いなぁと。正直いって、長期的に稼ぎの見通しが立たないことが不安で仕方ありません。これが聖霊の見方でないことは明らかなので、どうやら私は何をやっても決して幸せにならないぞと決意してるらしい。orz

 

それまでの自分を振り返ってみる

。。。でも冷静になって、ここまでの道のりを振り返ってみると、そもそもACIMに復帰した2年前の時点で「絵を描く」などという発想は不可能だった事を思い出すのです。もちろん、それが心の奥底にずっとあった事は知っています。でも、自分は絵の世界からあまりにも遠くまで道を外れてしまったので、とても戻れるとは思ってませんでした。

 

道を外れた理由は、主に16年前の離婚を起点にした怒りと無価値感との闘いでした。この苦痛を持て余して、文字通り地の果てまで旅するような事をやりました。あまり安全でない活動にもあれこれ手を出してきたけど、どういうわけか全て無傷で切り抜けたので、トベはそういうアドベンチャー系なのだという認識が自他共に定着していったという経緯があります。

 

でも内心では、こんなの全然楽しくない。。。自分は別に冒険路線が好きなわけじゃなくて、ただ成り行きでそうなっただけなのに引き返せない所に来てしまった。。。と感じていて、方向性を見失っていました。結果、創作への憧れのギャップを埋めるための折衷案として、超高温を扱う特殊なアート(ガラス)を始めたり。でも、それすらもどこか虚しかったです。

 

ACIMに復帰を決めたのはそんな頃でした。 ワークブック始めた直後にまさかの病気で倒れて、ガラスどころではなくなった経緯はこのブログに綴ってきた通りですが、この時にたくさんの象徴を手放すことになりました。気ままな一人暮らし生活も諦めたし、かつて自分の代名詞だったヘルメットも捨てたし、オフロバット関係の道具もほとんど処分しました。

 

それは過去の実績、つまり自分が生きてきた証を捨てることに等しかったので勇気の要ることでした。でも、2年前の謎の恐怖感(何も食べられず痩せ細った)のなかでマジ死ぬかも知れないと思ったときに、過去の自分像にしがみつく価値などないとようやく納得できたのかも知れません。それは元々、 ”前夫への復讐の表現として築いてきた自分像” だったので、それに執着する間はずっと虚しくて当たり前だったのでしょう。

 

皮肉なのは、そうした殺人衝動を相殺するためのアクティビティ(=でかいエネルギーをつぎ込むのでアウトプットもでかくなりやすい)の結果だけを吹聴してまわると、世間的に評価されたりチヤホヤされたりするということです。そうやって、いつの間にか嘘で塗り固めた自分像から抜け出せなくなるという悪循環にハマるんですね。

 

こんな分かりやすい設定なのに

今にして思うと、 離婚の怒りで復讐心が芽生えたのと同時にまったく絵が描けなくなったなんて実に分かりやすい物語設定だし、よく考えれば解決策までそこに含まれてますよね?と、自分でツッコミ入れたくなります。

なのに病気で人生強制リセットされるまで、「どうして突然何も描けなくなったんだろう?どうして?どうして?」と本気で謎だと思い続けてました。そうやって「描けない理由が全く分からない」と言い続けていれば、自分で目隠ししてる事に気づかずに済むもんな。(タオさんに看破されるまで本気で分からなかった…)

 

若かりし頃、残りの人生を復讐に生きると決めたことは、自分の内面に向かって「自分はもう二度と善きものを見ない」と誓うのに等しいことだったのでしょう。だから、描けなくなるのは当たり前だったんだなと思います。要するに、憎しみに基づく激しい思い込みが弱まるまでは、決して無邪気なお絵描きワールドに近づく事は出来ないという構図です。いまさらではあるけど、それらは自分の中では相互に排他的な関係だったのだと思います。

 

もちろん、ネガティブなエネルギーを昇華させる過程ですばらしい芸術作品を生み出す人たちも大勢います。そんな中、なんで私だけアートではなくアドベンチャー方面に全力投球する羽目になったのかは謎ですが、その辺は各人のシナリオ(カルマ?)次第なのかも知れません。

 

というわけで、毎日PCに向かって絵の練習をしながら、出遅れすぎて稼げない焦りと不安を味わっているのですが、こうして冷静に振り返ってみると「とりあえず稼ぎはどうあれ、ここまでこれて良かったじゃん、いまこうして描いてられること自体が信じられない事じゃん。素直に喜べばいいのに」という見方もたしかに出来るんだよな。。。

どっちの考えを採用すべきか、考えるまでもないか。

 

最近の練習の成果を貼っておきます。
以前よりもちょっとだけ、複雑な形状が描けるようになってきたかも?

若い女性ポートレート@PIXTA

若い男性ポートレート@PIXTA

夕焼けと紅葉@PIXTA

 

FACIM読書会 8月 - Chapter 2 (その3)

8/31。
長くなりましたがChapter2の要約はこれで終わりです。

「自分が密かに心に抱く考えには何の力もないだろう」と考えるべきではない、ということについて言及がありました。いま見えている世界がどれほどの誤創造であっても、自分の心がもつ力をリスペクトする必要があるというのは忘れがちなところので、何度でも読み返したいところです。


教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.1)
Kindle変換後のNo.と紙本のページを併記してます。


★Chapter 2 (p58〜)

No.2120/p58 “Therefore,” Jesus says, “I need you to bring your suffering...
・Jは言う。「あなた方の苦しみを自覚し、この世の何ものもそれを終わらせることは出来ないと認識しなさい。そうすれば、あなた方はいずれ私に助けを求めるだろう: ”自分の人生や人間関係には別の見方があるに違いない。(苦痛が)常に他者のせいであるはずはないし、自分がそこまで出来損ないであるはずもない。自分には明らかに気づいていない何かがあるはずだ” 」これが知覚をシフトさせるためのJの招待状。つまり私たちが経験する苦痛のすべては心の選択によるものであり、他の誰も/何も関与していないという事に気づくこと。

No.2173/p59 As it is the cause that we need to undo, not the effect...
・訂正の必要があるのは原因(心の誤った選択)であって結果(行動)ではない。これは「誤った選択を変更したいかどうか」という私たちの意欲の問題であり、助けが必要なのはその点のみ。これはテキストの冒頭から書いてあることだが、学習者がしばしば読み飛ばすのもこの部分でもある。

No.2196/p60 If we do not acknowledge and respect the power of our...
・もし私たちが、誤った選択を可能にするほどの心の力を認めて尊重しなければ、同じ心の力を用いて誤りを訂正することも不可能になる。

No.2210/p60 Perhaps we cannot do anything about our external...
・外的な状況について私たちが出来ることは何もない。例えばもし殺されるための強制収容所に入れられたら、助かるために行動面で出来ることはほとんど無いだろう。しかし心のレベルであれば状況を別の見方で見ることができ、恐れることなく平安でいることも可能。

No.2320/p64 People will frequently say: “What difference does it make...
・人はよく「自分の考えなんかが何になるっていうの?」と言うが、ヘレンもしばしば同じ間違いに陥っていた。彼女の振る舞いは社会において全く非の打ち所のないものだったが、彼女の考えはそうでない事が多かった。
・例えばヘレンはスリムな体型だったにも関わらず、いつも体重の事を気にかけていた(若い時に太ったり痩せたりを繰り返した挙句に入院する羽目になったため)。彼女が食事をする時はいつも料理のカロリーを計算していた。彼女は太るものさえ食べなければ、太るという考えを持ち続けても構わないかのように振舞っていたが、それは自己嫌悪(罪悪感)を温存する手段だった。

No.2328/p64 On another level, with the exception of the very few she...
・別の例では、ヘレンは(親しい数人を除いては)人々といることが嫌いだったが、彼女はそれらの人々にも表面的には親切にした。そして嫌いでない相手に対しては(内心)裁きまくっていた。
・「私が相手についてどう考えているかを言いさえしなければ構わない」というのは成り立たないとJは言っている。罪悪感とは、私たちが口にしたり行ったりしたことから来るのではなく、私たちが考えたことから来るものだ。政治家が意図的に嘘をつくとき、それが嘘だと誰も知らなければ構わないだろうと彼らは考える。しかし、自分が真実を表明していないと自覚している時点で罪悪感は在るのだ。

No.2341/p64 It is extremely important to understand the mind’s power...
・心が持つ力を理解することは非常に重要。たとえ今すぐ心を変えることが出来ないとしても。頭痛を和らげるため毎日薬を飲む時、私たちは少なくとも自分が何をしているか意識し、自分に正直になってこう言うべき。「私は頭痛という問題が心から来ていると知っているけど、私はまだ(心に戻ることが)恐ろしい。私の心が持つ力はあまりにも強力で、それは自らの力を否定できるほどのものなのだ」
・この認識さえあれば、頭痛だろうが癌だろうが、癒しへの扉を開いたままにしておける。さらに、自分自身に対し正直で、優しく、忍耐強くあることで、他者に対しても同じように接することができるようになる。

No.2370/p65 Asking Jesus to get us parking spaces, heal cancer, ...
・Jに対して駐車スペースを見つけてくれとか、癌を治してとか、世界を平和にしてと頼むことは、Jに原因と結果の法則に干渉してくれと言うばかりでなく、私たちの心の力を減じるもの。この夢から覚めるための助けを求めておきながら、なぜそんなことを頼む必要があるのか。もちろん具体的な事を頼むのは罪ではないが、そこに固執することは梯子の一番下の段に留まること。

No.2467/p68 On the other hand, it is important to be true to our experience...
一方で、私たちの経験を否定しないことは大事。それは否定の中でもとりわけ無価値な否定。Jは我々の経験がどんなに非現実であっても否定することはない。(中略) 池があったロスコーでよく話したのは、ゴールはエゴの池に飛び込んで対岸まで泳ぎつく事だ、ということ。しかし池の底に潜ってエゴを探求したいという誘惑によって対岸まで泳ぐことを忘れてしまう。

No.2525/p69 Forgiveness is the simple recognition that what others...
・赦しとは「他者がした事が私たちを傷つけることはない」というシンプルな認識であり、私たちの平和的な無防備さによって実証されるもの。それは「あなた方も心に戻って同じ選択ができる」というメッセージ。教えるのは私たちの行動ではなく、私たちが選択した心の平和によってである。

No.2597/p71 As we recognize the true source of our pain, which is the...
私たちは痛みの真の源を認識するにつれて不快感に敏感になってゆく。汚れたテーブルクロスに多少のしみがついても目立たないが、真っ白なテーブルクロスが少しでも汚れたら目立つのと同じ。

No.2639/p73 Once again, time and space are not really under Jesus’ control...
・時空の世界に囚われている我々には、真の助けとなる準備が出来ているかどうか(自分で)評価することは出来ない。私たちは進歩と後退の区別がつかないから。
・でも私たちは赦しのレッスンに熟達していなくても、Jの生徒となる準備はできる(むしろ熟達してたらコースは不要)。「準備が整った状態とは、「テキスト」も述べているように、熟達そのものではない(M-4.IX.1:10)」


*****
Chapter 2からは以上です。

今回も厳選しようと思ったんですが、これはと思う内容が多くてうまく絞れませんでした。。。次回はもうちょっと考えよう。

 

FACIM読書会 8月 - Chapter 2 (その2)

8/31。
こちら前回のChapter2の要約の続きです。このあたりは病気や魔術に関しての解説が出てきます。魔術を用いることであろうが何であろうが、親切心と思いやりをもって兄弟に接するように、と博士はここでも繰り返し述べているのが印象的でした。


教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.1)
Kindle変換後のNo.と紙本のページを併記してます。


★Chapter 2 (p53〜)

No.1941/p53 To summarize the ego’s strategy, it protects itself from the...
・エゴの戦略により、神の子の注意は、快楽を得る手段としての肉体に向けられている。しかし、その本当の意味は苦痛を避けること。
フロイトによる快楽の定義は「緊張の緩和」とされている。コースでも、エゴの快楽というのは、罪から来る緊張(苦痛)を最小限にするものとして示されている。

No.1953/p53 One of the ego’s favorite means of expressing its need for...
・エゴが好んで用いる贖罪の手段は病気。神は我々を罰して滅ぼそうとしているので、その罰を未然に防ぐための罪滅ぼしとして、自ら身体を病気にするという考え。罪の表出である肉体を罰すれば神の復讐心は満たされ、なおかつ身体(=エゴ)も存続させることができる。こうして病気の肉体はエゴが真実を歪めるための主要な手段となる。

No.1964/p53 What is “amiss on one level”, of course, is the mind’s guilt...
・「一つのレベルの間違い(T-2.IV.2:2)」というのは心の中の罪悪であり、それこそが本当の病気。誤った心は身体に影響が及ぶと信じており、実際に夢の中においては、肉体は病気になる。
・しかし真実には肉体は存在しない。存在しないものがどうして影響を受けるのか?肉体というのは単に心の想念の投影であり、心だけが病むことができる以上、癒されるべきは身体ではない。罪悪を選択したことが問題であり病でもある。→癒しは罪がない状態を選択すること — 贖罪 — によってもたらされる。

No.1973/p53 The implications of this statement that “only the mind is...
・「心のみが誤りを犯すことができる(T-2.IV.2:4)」という箇所は、学習者が見なかったフリをするほど恐るべき内容。この一言が意味するのは、この世界にはいかなる問題も間違いもない、ということだから。→我々の恐れが大きいからこそ、コースでは同じ内容を何度も繰り返し提示する。

No.1988/p54 Magic, as we have seen, is an attempt to solve a problem...
・魔術とは、問題が存在しないところで問題解決しようとする試み。肉体の病気とは、心の罪悪感を肉体に転嫁させるエゴ流の問題解決。
・「病気は真理に対抗する防衛である(L136)」の意味:エゴの恐れは、心が真実を選ぶことによって誤りが訂正されてしまうこと。しかしエゴは肉体を病気にすることで、真の問題のありかである心から気を逸らせる。身体が故障すれば、身体の症状を和らげることだけに関心が向き、自分の心を変えようと思いつくことなど到底できなくなるから。

No.2028/p55 This teaching is crucial. Jesus is asking us not to deny our...
・Jは私たちに、この世界での物理的な存在であることを否定してはならないと言っている。肉体を否定するのは「とりわけ無価値な形の否定(T-2.IV.3:11)」。無価値である理由は、そのような否定をしても私たちの助けにはならないから。
・神の子である私たちに相応しい助けとは、夢から覚めるために、肉体を学びの道具として見ること。肉体に善し悪しはない。聖/邪もなく、健康/病気もなく、生/死もない。

No.2035/p55 A corollary to this mistake, which is going to be addressed...
・学習者にありがちな間違いは「身体は幻想であり病気の源ではないのだから、身体を助けることは罪だ」と考えること→「あなたが苦しんでて緊急治療室に連れてって欲しいのは分かってる。だけどそれは真理に対する防衛だって知らないの?」「君がひどい頭痛で何にも集中できないのは知ってる。だけどなぜ瞑想して赦しを実践しないんだ?痛みは心のものだから、薬や医者にかかるなんて誤りをリアルにするだけだよ。」

No.2055/p56 Jesus is saying to all of us: “For my sake and yours, be kind...
・Jは我々全員に言っている。「あなた自身のためにも、あなたと同じくらい狂っている兄弟たちに親切にしてあげなさい」と。兄弟たちを、コースの教えを用いて攻撃したくなるのは学習者にとって大きな誘惑。彼らは進歩した教師の特徴のひとつが、親切さや思いやりだということを忘れている(M-4.IV)。

No.2061/p56 Therefore, here at the beginning of his course, Jesus urges...
・だからこそJはコースの始めで、魔術を用いることについて、自分自身にも他者に対しても親切であるようにと促している。
・言ってみれば、私たちは呼吸するごとに「酸素がなければ死ぬ」という魔術の信念を強化しているわけだし、飲食することさえ魔術の信念である。ACIMは学習者たちに呼吸をやめろとか飲食するなとは言っていない。私たちの身体を(物理的/心理的に)生かすものが全て魔術だとすれば、誰かが薬を飲んだり医者にかかることの何が問題だというのか?

No.2095/p57 The problem with using magic is that it works, an experience...
・魔術を使用することの問題は、それが実際に効くということ。空腹のとき食べれば満たされ、孤独な時に友がいれば寂しくないし、頭痛の時にアスピリンを飲めば治る。だからコースは魔術を使うなとは言ってない。ただ、この世界にあるすべては諸刃の剣であり、エゴにも聖霊にも仕えることができると述べている。そして魔術の唯一の有用性とは、愛ある方法で心に戻ることだ、ということを忘れないように。
・私たちが聖霊を選択する動機となるのは痛みであり、魔術が究極的には役に立たないということの認識である。例えば、寂しいとき友がいれば助かるが、明日はどうか?朝食を食べて満たされても、昼過ぎにはまた空腹になる。魔術のシステムには本質的におかしな所がある — それは癒すことができないのだ。

*****

Chapter2 (その3)に続きます。次で終わりです。

 

FACIM読書会 8月 - Chapter 2 (その1)

8/31。

月イチのFACIM読書会のメンバーとは、いつもいろんな話をしすぎて何話したか結局忘れるトベです。でも「なんかえらい面白かったから、また皆に会えるようにJourney本頑張ろう」ってなります。目的と手段が逆転してる感じがするけど、細かいことは気にしない気にしない。。。

今月は、Chapter2の要約をシェアしてきました。今回ちょっと量が多くて9000字近くになったので3分割します。

 

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.1)
Kindle変換後のNo.と紙本のページを併記してます。

 

★Chapter 2

No.1635/p44 The ego then says to the Son: “We can escape God’s...
・エゴは「神の憤怒から逃れるために心を離れて世界に隠れよう」と神の子に告げる。その結果、私たちは自分を心ではなく身体として経験するが、身体とは神から分離したという想念に他ならない。
・身体は、間違った心(罪、罪悪、恐れ)によって支配される世界にかたちをとるため、心が抱えるのと同じ問題に直面することになる。
・実際、世界とはエゴが私たちが心から離れたままにしておくための戦略であり、その中では私たちは自分が身体だと思い、世界の問題に関心を奪われる事になる。

No.1646/p44 Since the problems seem to exist on the bodily level...
・さまざまな問題が身体のレベルで現れているように見える以上、解決も身体と同じレベルでなされることになる。コースではこうした偽の解決策を魔術と呼んでいる。

No.1653/p44 Finally, it becomes clear to us that since nothing here...
・いつか最終的に、この世界では何も上手くいかないことが明確になった時、私たちは「別の道」があるはずだという結論に辿り着く。それが何かは分からなくても、心の中に施錠された扉が開くための準備ができる。レッスン121に「赦しが幸せへの鍵である」とあるように、赦しこそがその扉を開く鍵である。

No.1673/p45 It is evident as we read A Course in Miracles that is is written...
・コースが人類用に書かれた事は確かだが、人類が唯一の神の子というわけではない。一なる子は人類だけでなく形態をもつ全て — 地球だけでなく太陽系、銀河系、宇宙全体をふくむ。
・しかし我々が神の子を断片として見ているので、コースは我々に理解できるようにそのレベルで書かれている。だがJは、分割不能な一なる子しかいないことを(概念上で構わないので)我々が認識するように望んでいる。

No.1736/p47 When Jesus says “what actually occurred,” he does not...
・幻想である夢の中では太古に分離が起こったが、夢の外側においてはそれは一度も起こっていない。
・このパラドックスを解決するのは不可能。なぜなら、この矛盾を解こうとするとき私たちはそこに和解させるべき何か — 真実と幻想 —があると宣言することになり、二元性と分離をリアルにしてしまうから。

No.1762/p48 Almost sixty years before these words were written down...
・コースが書かれる60年前、フロイトは「夢判断」において、我々が眠り続けていたいとき、眠りを覚まそうとする外的な刺激を夢の中に取り込んで対処する事を示した(例えば、明かりが灯く、電話が鳴る、膀胱がいっぱいになった時など)。
・このように眠りを守ろうとする機能についてJが言及しているのがT-2.I.4:6のくだり。(中略) 従って、我々の恐れとは目覚めに対するものであり、我々を分離の夢から覚ます光に直面したとき、その贖罪の光を夢の中に取り込もうとさえする。

No.1780/p48 Students of A Course in Miracles are unfortunately not...
・コース学習者もこの間違いに陥りやすい。Jはヘレンに対し「恐れからの解放を求める代わりに、その恐れをもたらした状況(分離を選択したこと)について助けを求めなさい(T-2.VI.4参照)」と言っている。私たちは夢から覚めるよりも、夢の外にある真実の光を夢の中に取り込むことによって、自我を安全に保っていたいのだ。

No.1806/p49 The Holy Spirit does not attack or seek to prove the ego...
聖霊はエゴを攻撃したり、エゴの間違いを証明したりしようとはしない。ただ微笑みを浮かべながら「訂正すべき事など何もない。なぜなら、何も起こってはいないのだから。あなたは今でも神と共に我が家にいながら、流刑の夢を見ているだけ(T-10.I.2:1参照)」と言っている。

No.1844/p50 As a way of helping Helen and Bill — clinical psychologists...
・保守的な臨床心理学者であるヘレンとビルを助けるために、Jは彼らに馴染み深い心理学の理論や用語を用いて(=解釈し直して)伝えた。(中略) その中で最も重要なのは、フロイトが唱えた防衛機制。Jはエゴによる防衛の用いられ方について解説している。

No.1859/p50 The goal of this defensive strategy is to have God’s Son...
・エゴの防衛戦略の目的は神の子が心を離れること。自分が心ではなく肉体だと思うようにする。そのための動機付けとして、心は危険な場所だから逃亡しなければならないと教える。
・エゴの防衛①:神聖ならざる三位一体=罪、罪悪、恐れ。
・エゴの防衛②:肉体。=罪悪感を守り、贖罪を選ばせなくする。

No.1872/p51 Freud’s great genius and gift to the world was to explain...
フロイトの天才的な功績は防衛がどのように働くのかを明らかにしたこと。彼は防衛の究極的の目的(贖罪を遠ざけること)は知らなかったが、その力動は理解していた。それだけでなく、投影という概念をもたらした。この功績がなければ今日のACIMは無かっただろう。

No.1880/p51 However, the ego tries to get us to deny we are guilty...
・エゴは私たちの罪悪を否定しようとする。これが抑圧。それは罪という間違いをリアルにした後で、それは自分ではなく他者にあるとする。
・一方、聖霊の否定は何も隠さない。単にエゴが真実だと主張する分離を否定するだけ。

No.1894/p51 The ego is a two-edged sword, because the defense it...
・エゴは諸刃の剣。その防衛は私たちを一時的に救うように見えるが、結局はその防衛を必要とする問題を存在させてしまう「すべての防衛はそれが防ごうとしているまさにそのことを行う(T-17.IV.7:1)」。
・一方で、贖罪による防衛は、心の中の神の愛の記憶を用いて「真理の否定を否定すること(T-12.II.1:5)」。従って、適切な否定の使い方は、私たちから神の平安を奪うエゴの力を否定すること(=贖罪)。

*****

。。。というわけで、Chapter2 (その2)に続きます!

 

そのことを深刻にしないこと

8/28。

FACIMから不定期に届くニュースレターには、ワプニック博士のオーディオからの書き起こしが掲載されていたりします。今朝届いた分は「Words and Thoughts」というワークショップの音声から抜粋した書き起こしで、すごく覚えておきたい内容だったので、ちと長いですが自分語に変換してみました。(私の解釈を挟んだ要約にすぎませんので、悪しからずご了承ください)

 

ちなみに原文で正しく読みたい方はFACIMの「Don't Make A Big Deal About It」というページに今回の書き起こしの大部分が載っています。でも、冒頭のQ&A部分は配信済みのニュースレターでしか見ることができません。今後の配信分を見逃したくない人はFACIMでメルマガ登録(Email Signup)するのがオススメです。

 

まず、メルマガの内容から。冒頭Q&Aです:

以下は「Words and Thoughts」というワークショップ内でのケネス・ワプニックと生徒とのやりとりです。


Q:私は長い間、片頭痛を患っています。検査の結果アレルギーが見つかり、グルテン、とうもろこし等のあれこれを摂取できなくなりました。「ということは、私は誰に対してアレルギーなのかしら?」と考え、(他者を)裁くことについて取り組んでいます。だけど、このアレルギーは自分で作り上げているのですか?もし私がアレルギーをやめる決断さえすれば5分で治るものですか?


ケネス:それもできる知れませんが、なぜですか?アレルギーの何が問題なのですか?アレルギーについて悩みすぎない事です。肉体というのは故障するように出来てます。必ず何かが起こるものです。だから深刻にしないことです。


Q:ですが嫌になってしまいます。夫とレストランに食事に行っても「ええと、私は小エビのサラダだけにするわ。抜いて欲しいものはお塩と胡椒と…」としか言えないなんて。私はアレルギーなんか望んでません。でも今はアレルギーなのです。


ケネス:このコースのゴールは、エゴを無くすことでもなく、肉体を完璧に機能させることでもありません。ゴールは、あなたのエゴが発動したり、あなたの肉体の機能が損なわれているときに、「それが何だと言うんだろう?肉体とはそういうものじゃないか。そして私は肉体ではない」と言うことです。

(続く↓)

 

以降は Don't Make A Big Deal About It より。

 

そのことを深刻にしないこと

 

(続き)
この世界と肉体を巨大な「気を散らせる装置」と考えてみましょう。その目的は私たちの注意を心から逸らすことです。私たちを心がない状態にしておけば、心を変更することができなくなり、エゴの原初の決断をいつまでも保持できるからです。それがこの装置の目的です(コースは目的が全てだと言っています)。私たちは、気が散ることだらけの肉体に生まれ、いつも心を失った状態でいます。私たちは問題を作り、病気を作り、有害な刺激をもたらす世界を作って、常にそれらにフォーカスし続けるようにしました。


さて、肉体としてここに居る私たちは、指をパチンと鳴らすだけで「さあ、自分はもう肉体ではないぞ」という訳にはいきません。私たちにはまだその準備が出来ていないのです。この肉体的な悪夢の状態から天国へと一足飛びには行けないのです。だから少しずつステップを踏んでゆく必要があります。こうした小さなステップにおいて、私はこう言います「よし、これは私の肉体だ。私は肉体をケアしよう。だけどそれについて深刻になるのはやめよう。そして私は自分を肉体だと定義し続ける必要はない。この肉体が完璧に機能して誇らしい時であっても、肉体が故障して絶望的な時であっても」と。これらの中間的なステップにおいて、コースが言う優しい夢が私たちの肉体としての体験になっていきます。


繰り返しますが、あなたの痛みや不快感(肉体的 / 精神的どちらでも)を最小限にするための手立ては何でもしてください。だけど、それを深刻にしすぎないことです。もし医者にかかるのがあなたの治療の選択であればそうしてください。薬を飲んだり、食生活を変えたり、出来ることは何でもしてください。ただ、それを前面に置いたり中心に据えるのはやめましょう。それはエゴが望むことです。それは、問題や病気や状況を作り出してあなたを陥れるだけでなく、それを解決する事に取り憑かせてしまいます。あなたは一日中ネットで調べ物をしたり、(役立ちそうな)本を読んだり、あの人に会ったりこの人に会ったりするでしょう。それが助けになる事であればもちろんそうして構いません。だけどあなたは、あなたの状況以上の存在です。あなたはアレルギー以上の存在なのです。(笑)


あなたは自分の墓石に「私はここに眠る。私はアレルギーだった。グルテンを食べられなかった」(笑)と刻んで欲しいですか?そのように記憶されたいですか?ですが、そこが問題なのです -- あなたの状況(肉体的/精神的)を、あなたの存在理由の全てにしてはいけません。小さな意欲を持つとはそういう意味です。それは肉体を諦めるとか、指をパチンとならして「私は望み通りのものを得て回復するわ!」と言うことではありません。それで治るかもしれないし、治らないかもしれない。だけど、あなたがもし本当に神の平安を得たいのであれば、再びグルテンを食べられるようになることによってその平安を得ることはで無理でしょう(笑)。ですが、グルテンを食べられないという事態について平安でいる事を学ぶのであれば、あなたは神の平安にもっともっと近づくことになります。なぜならあなたは、外的世界にあなたを支配する力を与えない事を学んでいるからです。だから風邪をひいても構いません。癌になっても構いません。食事制限があっても構いません。ただ、そのことについて苦闘しないでください。そのことによって自分を定義しないでください。それが鍵です。(中略)


深刻でないものについて深刻になるのはやめましょう。それは、自分を甘やかしていいという意味ではないし、病状に耐え忍ぶべきだという意味でもありません。それはただ単に、それらが仕える目的(心から気を逸らさせること)を認識するということです。それらの病気や症状といったものを、心に戻るための手段として使うのです。エゴを出し抜きましょう。肉体と、肉体上で起こっている出来事(その問題が何であれ)を利用してください。「これが私が決断する心に戻るための方法なのだ」と言うために。


あなたが見ている世界とは -- 私のアレルギーとは --「内的状況の外的映像」(T-21.in.1:5)です。そのようにすれば、エゴが自分を傷つけるために利用してきた物事は、いまや私を心に連れ戻すための乗り物となります。重要なのは、心の力を使って状況のほうを修正するのではない、ということです。それでは我が家に帰れません。それはあなたに幸せな肉体を与えてくれるかも知れませんが、あなたの心を変えることはないでしょう。肉体を変えるために心を使うのではなく、肉体について心自身を変えること、つまり「私はこれを見るかわりに、平安を見ることもできる。(L34)」のです。私はアレルギーでもいいし、癌でもいいし、足を捻挫してもいいけど、どのような状況であっても平安でいられるのです。想像してみてください、それがどれほど天文学的な進歩であるかという事を。


しかし、心の力を単に肉体を変えるためだけに使ってもどこにも行き着けないでしょう。それはこの世界でより幸せな夢を与えてくれるかも知れませんが、それはあなたをさらに世界に根付かせてしまいます。人々が「ザ・シークレット」について話す時、それは心が望むものを引き寄せようという話ですが、それ自体には別に何の問題はないにしても、我が家に帰ることはできないでしょう。もちろん、心が世界を作って心があなたを貧乏にしたのだから、心を使って洒落た方法を実践すれば、金持ちになることだって出来るでしょう。ですがそれは、あなたの正しい心ではありません。焼けた石炭の上を素足で歩いても火傷しない事だって可能でしょうが、だから何なのですか?天国への道は石炭で舗装されてるわけではありません。(笑)


あなたが学びたいことは、世界と肉体について深刻になるのをやめることです。肉体で何が起こっていようとも平安でいることを学ぶことができれば、それは本当に何千年もの時を節約させてくれます。肉体が楽になる事をしてはいけないという意味ではありません -- そうしないのは馬鹿げています -- しかし、深刻にならないことです。あなた自身を、病状や治療法によって定義しないでください。覚えておいて欲しいのは、あなたはこの世界にある全てを、世界から抜け出して心に戻るための乗り物として使うことができるのです。それが世界というものの価値です。


ですから、私が見ている世界、私がリアルにしている世界、私の平安を奪い去る力を与えている世界というのは「内的状況の外的映像」(T-21.in.1:5)です。それは愛を捨て去るという心の決断であり、私を平安のない状態に置き去りにします。私はそれを外に投影し、自分が平安でない理由はアレルギーのせいだとか、あれこれの状況のせいだと言います。そして今、私はそれが真実ではないと言います!私はそれでも平安でいることができます。どのような病的症状も、決断する心につれもどしてくれる方法として使うのです。そしてそれは千年もの時の節約になるのです。


それが先ほど私が触れたことの意味です。エゴが傷つけるために作り出したものを、聖霊は癒やすために使います。だから私はアレルギーについて何もする必要はないのです。何とかする必要があるのは、自分がアレルギーによって定義されていると考える心についてです。そしてこのことを練習しつつも、私は肉体が楽になるような様々なことを行うでしょう(食生活を変えるとか、医療を変えるとか)。しかし重要なことは、アレルギーによって定義されていると考える自分自身の心について何とかすることなのです。

 

以上、Words and Thoughts からの抜粋です。

 

。。。と、大まかにいってこのような内容でした。ここでは質問者に答える形でアレルギーを例に挙げていますが、実際にはどのような問題にも置き換えることのできる素晴らしいアドバイスだと思ったので、読み終わると同時にメモメモ。

 

さて、このワークショップは2010年11月に開催されており、それは博士が2013年12月に移行を果たすちょうど3年前のものです。今回のやりとりでは、アレルギーという言葉と平行して、癌という単語も繰り返し出てきます。博士がこの時点で自分が癌であった事を知っていたかどうかは知る由もありませんが、もし自身の病気を承知の上でこのメッセージを分かち合っていたとしたら一層の重みがあるな。。。と思ったりしました。

 

ベン・ハー(1959年版)の空気感

8/22。

今月あたまのオンライン講座(22)でゲイリーがちらっと言及していた映画「ベン・ハー(1959年版)」が気になってて、ツタヤに借りにいったけど貸出中で入手できず。古い映画だけど、名作と言われるだけあって根強い人気があるんですね。

 

DVDを取り出してみたら2枚組でした。そうか、大長編と言われる理由はこれか。よし、ガッツリ時間を確保して一気にみよう!と思って観始めたら「あれ?なぜか筋書きを知ってる…」→じつは、大昔に観たことがあったらしい。orz

 

この映画の原題が「Ben-Hur: A Tale of the Christ」となっている通り、ベン・ハーというユダヤ人男性の波乱の人生を描いたストーリではありますが、その背景でイエス・キリストが強烈な存在感を放っている作品です。それもゲイリーが言ったとおり、一度もイエスの顔が画面に映しだされることはないにも関わらず。確かにこの演出は巧みだなぁと思わずにいられません。

 

ちなみにストーリーは、コース学習者真っ青の復讐劇だったりします。筋書きの大半を使って剥き出しの自我が徹底的に描かれていることで、却ってイエスの無私な在り方が際立って印象に残るように思います。

もちろん公開当時の1959年にはACIMなんて影も形もないわけですが、これまでに多くの人々がこの映画から何らかのかたちで赦しのメッセージを感じ取ったに違いないだろうなぁと思います。中には、心の重荷が軽くなった人もいるんではないでしょうか。

 

個人的に新鮮だったのは「当時の空気感」がよく再現されているように思えたことです。日本に暮らしていると、当時のユダヤ人やローマ人が何を思って生きていたか想像もつかないのですが、この映画を見ると双方の立場や暮らしの違いが伝わってきます。

当時はローマ人が支配者で、ユダヤ人が支配される側だったこと。そしてその統治のために、多くの奴隷が生死に関わるほど非人道的な扱いを受けていたこと。一方で、解放奴隷となって自由の身になることのできるチャンスもあった事。あるいはハンセン病の患者が社会的な差別を受けていたことなど、今からは想像もつかないような様々な社会ルールの中で人々が暮らしていたんだなぁ。。。と。

 

この空気感に浸れる良さを活かして、もうひとつの楽しみ方もあると思ってます。学習者限定プレイではありますが、それは、「もし当時、自分もそこに居たとしたら…」ごっこです (何のプレイだw)。

映画の後半に、イエスの説法を聞くため、群衆が丘に集まるシーンがありますが、もし自分もあの中のひとりだったら…!などと空想するのはなかなか楽しいです。テキストだけ読んで想像するより、ベン・ハーを観ながら想像したほうがリアリティが増すことうけあいです。笑

 

Tao House 勉強会 8月

8/18。

ひとつき空けて開催された8月のTao House勉強会に参加してきました。
こちらはというと、仕事を辞めて突然の自由時間が出現したものの、先月あたりは自分でも何をしていいか分からなくてちょっと迷走気味でした。でも、その回り道のお陰で「やっぱり今はお絵描きを頑張ろう」と思えたタイミングだったので良かったです。

 

実は、ちょうど迷走から抜け出そうともがいてた時期に、離婚で病んでるニコちゃんをはじめとした「ちょっと疲れて参ってる男子」から立て続けにコンタクトがあり、少し気が散っていました。

もうひとりの同級生仲間のウオキンも、毎晩終電まで残業というブラック環境でヨレヨレになっており、毎日のようにSNSで「トベちゃん、トベちゃん」とSOS祭り。しかも忘れたころにリノさんから電話があり「仕事決まったけど夜勤が大変で…」とかなんとか。わかるよ、わかりますよ、でも私はあんたらを慰める係じゃないっつーの!!

 

ひとつひとつは小さな事だけど、同じ時期に疲労男子が3人も出現した事が気になってたので、タオさんに聞いてみました。

「どうして私にヨシヨシして貰いたがる男子ばかり現れるんでしょう?」

「そうね、一番ヨシヨシが必要だと思ってるのはトベちゃん自身なのかもね。」

「えええ?私が?な、何に対してですか??」

「過去に自分が乗り越えてきたこと、頑張ってきたことを、まだ誰かに認めて欲しいと感じてるんじゃないかしら。自分は神にヨシヨシして貰えないという夢ね」

「そ、それで自分が神に代わって他人をヨシヨシできる世界を…ゲフッ orz」

 

言われてみると思い当たるフシがあるのです。パートナーの背信が発覚したニコちゃんの離婚は内容的に私が通ってきた道と同じだし、ウオキンやリノさんに至っては「適性はあれど疑問も感じる仕事でデキル子を演じる」というアレと同じです。

彼らに対して「ヨシヨシ君たちよく頑張ったね」と励ますことで、間接的に自分を慰めていたというのはしっくり来ます。そんな手の込んだ方法を使ってでも、過去の問題をリアルにしたいということか。。。(~_~;)

 

もし聖霊の眼差しが彼らを見るなら、3人とも困ったちゃんではなく、神に創造されたままの麗しい兄弟なのでしょう。心の中ではそう思うことにします。いつも出来るわけじゃないけど、もし「こいつら甘えやがって…」とか思ってる自分に気づいたら一瞬でも思い出すことにします。でないと私は、過去の影をいつまでも温存することになりそうです。

 

描くことが象徴するもの

さて、タオさんからは今回も素敵アドバイスがあったのですが、それはちょうど私が直感的に感じてたことと一致してました。つまり、幻想レベルの話という但し書きはあるものの、いま自分にできることは「絵を描くことをこのまま続ける」ということです。(現状、絵では1円も稼げないので心苦しくはあるんだけど…)

 

絵を描くことと外界での出来事との間に何の接点があるんだ?と思うけど、私の場合は大きく関係している気がしてなりません。幼い頃から、私にとって絵を描くこととは、自分が何者なのかを象徴的に定義するものだったのではないかと。それは、私という意識の断片にとって何が喜びなのか?ということのシンボルであるように感じます。

 

もちろん内容だけを重視するACIMの観点からは、絵を描くという行為自体には何の意味もないので、あまり形態にフォーカスするつもりはありません。こうした個人的な楽しみが、赦しとは何の関係もない事も承知しています。だとしても「描く」という行為を通じて心に喚起される何か (それは言葉にできないけど善いものです…) があるのは確かなので、できればその感覚からあまり離れたくない、というのが今の心境です。

 

個人的には、それはワプニック博士がクラシック音楽をこよなく愛したことと同じカテゴリの何かだと思っています (A Symphony of Love内の博士自伝に詳しいです)。あるいは、ゲイリーがギターやスポーツや映画を愛することとか、シンディが歌わずにいられないこととにも通じる気がします。そうした楽しみが、夢を強化にする目的に使われるのでなければ、そこに喜びを見出すこと自体は問題ないはずです。

 

ただ、博士を始めとする教師がその事についてあまり話さないのは、それらが非常に個人的な体験であり、なおかつレベルの混同を起こしやすいネタだからだと思います。実際、博士は音楽を通じてかなり神秘体験をしていた事が伺えますが、公の講座では一切その事について触れていません。(そんな話をしたら、私たちが勘違いする事をよく知っていたからでしょう)

 

タオさんもそのへんの言葉にしづらい部分をよく分かってくれていて、だからこそ初めて会ったその日からずっと、あくまでも個人的なアドバイスとして、私に絵を描くよう励まし続けてくれたんだ。。。という事が今になってだんだん実感できるようになってきました。

 

「トベちゃんは、誤創造するヒマがないくらい描いたらいいのよ。笑」

というタオさんの一言が心に残ってます。それは私がなんとなく感じていたことを的確に言い表してくれていたからです。要は、私が自分自身を幸せな存在(=絵描き)として認識することができていれば、自然と幸せな人々に出会うことが増えるだろうし、逆に弱った男子をヨシヨシしてまわるような状況は発生しないだろうなという事です。

そして、そうした外的な変化は象徴的なものであって、実際には内面が変化することを指しているのだと理解しています。