ACIMタッチアンドゴー

奇跡のコースに復帰してのあれこれ

マリア福音書のA&P的解釈

7/25。

またもやトリビアな考察になりますが、翻訳の仕方によって印象がだいぶ変わるもんだなー、と思ったことがあったのでまとめてみます。

この話は、だいぶ前に「マグダラのマリアによる福音書」という絶版本を図書館で借りて書いた感想(記事①記事②)の続きになりますが、追加でちょっと興味深いことに気づいたのが発端でした。それは、ゲイリー4冊目の「イエスとブッダが共に生きた生涯」のp195にA&Pによるマリア福音書の解説のところです:

 

エスブッダが共に生きた生涯 p195:

パーサ:あなたの本で使ってほしい引用があるの。マグダラのマリア福音書からよ。「わたしは彼にいいました。『主よ、何をとおしてヴィジョンを見るのですか。わたしたちはそれを魂(ソウル)をとおして見るのですか。それとも霊(スピリット)をとおして見るのですか』。彼はわたしたちに答えてこういいました。『魂や霊をとおして見るのではない。その二つのあいだにある心(マインド)をとおして見るのだ』」


上記でパーサが言及している箇所(下線部分)が「マグダラのマリアによる福音書」で言うと、「ベルリン写本 8502, 1 7. 幻視と知性」の箇所に相当することが分かったのでちょっと興味を持ちました。そこだけ抜粋してみます:

 

マグダラのマリアによる福音書 p32-42:

ベルリン写本 8502, 1
7. 幻視と知性
 1 彼女は言った、「わたしは主を幻の中に見たのです。2 そしてわたしはあの方に言いました、『主よ、わたしは今日あなたを幻の中に見ました』。
 3 あの方はわたしに答えました、『わたしを見て動揺しないとは、あなたは何とすばらしい!4 心のあるところには、宝があるのです』。
 5 わたしはあの方に言いました、『それでは主よ、幻を見る者は魂<によって>見るのでしょうか、<それとも>霊によって見るのでしょうか』。
 6 救済者が答えた、『人が幻を見るのは魂によってでもなく霊によってでもない。7 むしろ、その二つの間にある知性によって見るので、[そして、] それが [・・・]』」。

 

下線部分がゲイリー本とマリア福音書との一致箇所ですが、こうして並べてみると内容が違いすぎて、とても同じ原典を参照しているとは思えません。しかしこれは元々、コプト語ギリシア語→ドイツ語→英語→日本語、という解読リレーを経た考古学的翻訳ですので、この程度は誤差の範囲内でしょう。

さて、私が引っかかったのはこれについての解説文です。ゲイリー本の邦訳では、この箇所についてパーサが以下のように意味を訂正をしているのですが、そのせいで却って話がややこしくなります(下線部分):

 

エスブッダが共に生きた生涯 p195-196:

 これはマグダラのマリアによって記録されたの。ちょうどわたしたちが一緒にいたころよ。ナグ・ハマディ文書から翻訳された「何をとおしてヴィジョンを見るのですか」は「ヴィジョンをとおして何を見るのですか」となるべきね。マリアはすでに答えを知っていたけど、そう問うことの利点をJに尋ねたの。魂(ソウル)はとても霊的(スピリチュアル)なものと考えられているけれど、それは個別性、つまり個の存在という概念だから分離の考えなの。みんな個の魂があると思っているわ。個の概念が肉体を伴うかどうかは関係なく、分離は分離よ。

 その引用にある「霊(スピリット)」という言葉の英語の翻訳には「The」がついているけど、「The」は要らないわね。霊はそこにあるすべてで一体性(ワンネス)ですもの。だから、マリアの福音書には分離の考えと一体性の考えの二つがあるのがすぐにわかるでしょ。Jが「魂(ソウル)や霊をとおして見るのではない。その二つのあいだにある心(マインド)をとおして見るのだ」といったのは、選択することが心の機能だからよ。(以下略)

 

パーサこの訂正まぢか。。。訂正前の「何をとおしてヴィジョンを見るのですか」のほうがまだ分かりやすいんだが。。。しかも、訂正後を採用すると今度はJの回答と噛み合わないし。。。orz

そもそもめっちゃ平易なゲイリー本に、本当にこんな難解なことが書いてあるんかな?と思ってゲイリー本の原著「Jesus & Buddha本」の同じ箇所を参照してみました。すると、ちょっと違うニュアンスの事が書いてあって、あれっと思ったのです。参考までに、パーサの訂正が含まれている前半だけ原文を貼っておきます:

 

The Lifetimes When Jesus And Buddha Knew Each Other p103:

That was recorded by Mary Magdalene at the time we all hung out. This is what it meand: First, the quote as translated from Nag Hammadi writings asks, "What allows one to see a vision?" It should ask, "What allows one to see with vision?" That's what Mary was asking J, for the benefit of those listening. She already knew the answer. The soul, although considered to be very spiritual by most, is actually a separation idea because it's an idea of individuality, or personal existence. Everyone thinks they have an individual soul. It doesn't matter if the idea of individuality involves a body or not. Separation is separation. (後半略)

 

なるほど、こう書いてあったのか。するとだいぶ意味が変わってきそうです。

まず邦訳で「何をとおしてヴィジョンを見るのですか」となっていた所は、「ヴィジョン(心眼)を見ることを可能にするものは何ですか」という感じになるかと。

そして問題の「ヴィジョンをとおして何を見るのですか」となっていたパーサの訂正文は、実際には「ヴィジョン(心眼)と共に見る、ということを可能にするものは何ですか」というニュアンスなので、これでやっと意味が通ったーーーー!(°▽°)

まあ、この程度のズレは翻訳本ではよくある事なので、さらっと読み飛ばせばいいだけの話なんですけどね。でも、マリア福音書の意味を探求するのがちょっとおもしろかったので、古文書の内容と突き合わせつつ、該当箇所の本来の意味を考えてみました。加藤先生の用語やワプニック博士の表現なんかも混ぜると、たぶんこんな感じになるんじゃないかという妄想です:

 

エスブッダ本 p195-196の大意 byトベ:

パーサ:あなたの本のどこかで使って欲しい引用があるの。マリア福音書からの一節よ:「わたしは主に言いました、『主よ、ヴィジョン(心眼)を見られるようにするものは何ですか?わたしたちはそれを(個別の)魂をとおして見るのですか?それとも(全一の)霊をとおして見るのですか?』主はわたしに答えて言いました。『魂や霊をとおして見るのではない。その二つのあいだにある心(決断の主体)をとおして見るのだ』」

これはマグダラのマリアによって記録されたの。ちょうど私たちが一緒にいた頃ね。この一節の意味はこうよ:まず、ナグ・ハマディ文書の翻訳では「ヴィジョン(心眼)を見られるようにするものは何ですか?」と尋ねているけど、正しくは「"ヴィジョン(心眼)と共に見る" ことを可能にするものは何ですか?」となるべきね。マリアがJに尋ねていたのはそういう意味よ。彼女はすでに答え(=決断の主体)を知っていたけど、学ぶ意欲のある人たちの恩恵となるようにそう尋ねたの。

魂って、ほとんどの人達にはとても霊的なものだと思われているけど、実際には分離の想念なのよ。なぜなら魂というのは個別性の想念、または個人的な存在だから。みんな個別の魂があると思っているでしょ。でも個別性の想念というのは、肉体が関わっていようがいまいが関係ないのよ。分離は分離だから。

あと、この引用では「the spirit (霊)」と言う必要はなくて、ただの「spirit (霊)」でいいわね。霊というのは存在するすべてであり、一体性だから。なので、マリア福音書からの一節からも、あなた方が二つの考えを持っていることが直ちに分かるでしょう。

Jが「魂や霊をとおして見るのではない。その二つのあいだにある心(決断の主体)をとおして見るのだ」と言ったのは、それが "選択する" という心の機能だからよ。あなたは心を使って分離の想念(コースで言うところの肉体、人間の精神、個別の魂)か、霊(完璧な一体性)かを選ぶの。どちらであっても、あなたに選ぶ習慣がついたほうが、あなたにとって実在すると思うものになるのよ。それがあなたの信じるものになるし、影響を与えるものにもなる。これでJが2000年前にも、現在の「奇跡講座」と同じことを教えていたことが分かるでしょう。(以下略)

 

*****

。。。というわけでした。ちゃんちゃん。

なんか重箱の隅をつつくような話になっちゃって恐縮ですが、やっぱりいちばん感動的だったのはパーサの言う通り、2000年前からほぼ手つかずで保存されてきた「マリア福音書」でもコースと同じこと(=決断の主体による「分離 or 全一性」の二択)を言っていたんだ〜!という事ですね。

あと、パーサが「マリア福音書」を現代語で正しく伝わるように訂正してくれたのも有り難いです。パーサは古文書の翻訳で欠けていた"with(共に)" という一言を挿入しただけなんだけど、それだけで内容がグッとコース的にクリアになります。

ちなみにマリア福音書に関しては、たまたま日本に全文翻訳が掲載された「マグダラのマリアによる福音書」があったお陰でこのような考察ができた、ということにも感謝したいと思います。アカデミックな見地からも、Jの言葉がだんだんコース寄りの意味合いで解読されはじめている事を肌で感じることができるのは嬉しいです。

 

梅雨空に諸行無常の響きあり

8/3。

この7月、東京でもずーっと天気が悪くて最後まで梅雨があけなかったし、新型コロナ感染者数が爆増してすごいことになってるなあ、という印象です。そんな7月の中旬ごろ、じつに半年ぶりくらいに電車に乗って病院の定期検査に行ってきました。その結果、「あなたは絶好調なので、もし次回もコロナ大流行してたら無理して検査こなくていいです」とスタローン先生。じつは私もそう思ってました〜。賛成(゚∀゚)

それ以外では相変わらず外出もしてないし、誰とも遊んでない日々が続いてます。ひたすら日々の雑事をこなすばかりで、あまりぱっとした成果のない7月でしたが、耳を疑うような話があったのでメモ:

 

クロトワ課長の電撃休職

現在テレワーク中の派遣仲間のビューティさんと久々のオンライン女子会をやったときに聞いた話ですが。。。なんと、あのクロトワ課長がメンタル不調で休職したというのです! Σ(゚Д゚lll)

えええ?どういうこと?私には「元気モリモリで部下に圧かけまくりのパワハラ健康優良児だったクロトワ課長」という記憶しかないんですが!?(むしろ、彼の部下がメンタル不調になるとかいう話なら分かるけど。。。) クロトワ課長ってそんな繊細だったっけ?まして無期限で休職とか、彼には無縁の世界だとばかり思ってました。まったく、人生どういう展開になるか分からないものです。

詳しい経緯などは聞いてないので分かりませんが、まあ、例の新社長が独裁体制を敷いてからというもの、突然の解雇とか、見せしめ降格とか、東南アジア左遷とか、精神を病んで入院した花形管理職が山のようにいるので、残念ながらクロトワ課長も似たような目に遭ったのではないかと。。。

それにしても、異動してわずか4ヶ月でいきなり休職とは。電撃すぎて意味がわかりません。特にクロトワ課長については、「気の毒...」と思う一方で「因果応報…」と思ったりもするので、私にはまだまだパワハラの信念が有り余ってるようです。orz

ついでに言うと、あの新人ちゃんもいつのまにか辞めてました。。。まあ、彼女は好き嫌いハッキリしてるので自分から出ていったんでしょうけど。

いやー、私が辞めてわずか1年ちょいで、かつての職場の面影は跡形もなく消え去りましたね。まさかこんな事になるとはね。

思えば、働いていた当時は私もキレ気味で、クロトワ課長も新人ちゃんも毎日ボロクソにDisってましたけど。でも、今となって思い出せるのは楽しかった時のことばかり。不思議なものです。

 

まさかのMRI検査結果

もうひとつ、青天の霹靂がありました。

毎日のように雨が降ってジメジメした日が続く中、ママリンが「目まいがひどい」と言ってフラフラで動けなくなる日が増えてきまして。。。最初は、天候の悪さや薬の飲み合わせの関係だろうと思っていたのですが、あまり症状が続くので、ついに近所の神経内科を受診してきたのが7月下旬。

そこでママリンが頭部のMRI検査を受けてきたところ、とんでもない事が発覚。。。!なんと、おでこの内側に脳腫瘍が出来ているというのです。しかも、そこそこの大きさがあるらしい。ところが、この腫瘍はママリンを悩ませていた目まいの症状とは全く関係がなくて、たまたまMRIを受けたから発見されたという。
Σ(゚Д゚lll)

だからといって即入院とかではなく、まずは経過観察ということで次回は9月の診察になるとのこと。ママリン本人も、腫瘍のことは自覚症状がないのであまり気にしておらず、どちらかというと運動量を増やして目まいが改善されたことで、だいぶ元気になってきた感じです。(むしろ私のほうが動揺してたかも)

ちなみにママリンはもともと体調には敏感なほうで、不定愁訴が多いかわりに無理もしないタイプ。おかげで、いままで大病もなく過ごしてきました。。。が、さすがに不死身という訳ではないし、やっぱり年齢的に何事もなくという訳にはいかないですね。今回の件も、めまい症状がなければMRI検査もなかったわけで、病変を発見できて良かったというべきなのでしょうが、なかなか複雑な気分です。

この件を機に、両親と一緒に過ごせる日々が有限であることを実感しています。この歳になって実家でニート状態というのは、なかなか世間体の悪いものがありますが、正直いうと、何かあったときに物理的にサポートできる距離にいられて良かったと思っています。自分がぶっ倒れた時に両親に助けて貰ったので、なおさらね。

こんな時だからこそ、毎晩寝る前とかにゲイリー本「不死というあなたの現実」p121のアーテンの言葉を思い出すようにしてます。(邦訳はちょっと表記ゆれがあるので、加藤先生の訳語に沿って表現するとこんな感じでしょうか)

あなたは(聖なる)霊です
全一であり、無垢の存在です。
すべては赦され、解放されています。
You are Spirit.
Whole and innocent.
All is forgiven and released. 


次回の検査、私も付き添うと言ったらママリンちょっと嬉しそうにしてました。一ヶ月くらい先になりますけど、一緒にドクターの話を聞いてくるつもりです。

 

ゲイリー達のオンライン講座 (44)

7/20。
こちらは日本時間で6/30に配信された The Two Pictures, from ACIM Chapter 17, Section IV のPart2です。実際に視聴したのは7月半ばという感じで、ゆる〜くやってます。シンディは6月のPart 1 (講座43)の話にあった通り、まだ少し目まいなどの後遺症が残ってるとのことなので、今回は大事をとって前半1hrのみの参加となりました。いつもどおり笑顔で元気そうではあったけど、無理せずゆっく療養して欲しいです。

講座の本編

ゲイリー、シンディともにいくつか興味深い話題がでましたが、過去の話題と重なるので今回はスキップします!

ところで、シンディが退出する直前に2人のあいだでCrowdcastの操作方法について軽い引き継ぎのやりとりがありました。あまりPC詳しくなさげなゲイリーに対して、シンディが「こうするとこうなるでしょ...♡」と、笑顔で優しく教えていたのが印象的でした。それも、2人で一緒に2年以上使い続けてるサービスの話ですよ?

やばい、シンディが天使に見える〜。私は家族が毎回のように同じ質問してくると「何度も教えたでしょ!」とスパルタ対応しちゃうので反省です...。orz

 

Q&A

というわけで、今回はゲイリー1人でのQ&A回答でした。ただ、ゲイリーだけでやるときはいつもQ&Aの操作方法がテキトーになってカウント不能になりますw。今回は実質的に9つくらいでした。その中から2つピックアップしてみます:

 

Q1. 洗礼者ヨハネとJの関係はどのようなものだったのですか?

(1:17) ゲイリー:まず、彼らは従兄弟同士だったので繋がりはあった。彼らは子供の頃に会っていた。そして互いの心の中で、いつの日か再会すると知っていただろう。

(1:18) 洗礼者ヨハネは実際にJを洗礼した。だけどJがヨハネの洗礼を受けに行った時、ヨハネは「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきです」と言った。ヨハネはJのことを救世主と呼んだりはしなかったが、Jが悟りの存在であることを知ってたんだ。彼らは若い頃すでに、かなり深い事柄について語り合っていたからね。

だからこそ、Jのなかでは従兄弟のヨハネに洗礼してもらうという事が象徴的な意味を持っていた。彼らはその洗礼をJの目覚めの象徴として行なったんだ。

(1:19) 聖書の話の一部は本当だ。洗礼者ヨハネヘロデ王に処刑された。ヘロデは馬鹿だったからね...って、裁いちゃいけないな(笑)。とにかくJとヨハネは長い付き合いはなかったにせよ、繋がりはあったということだ。彼らは親族として近しい魂を持っていた。たぶん洗礼者ヨハネは、悟りに達するのにあと1回しかこの世界に戻ってこなかったんじゃないかと思う。彼はすでに多くを知っていたからね。(以下略)

 

Q2. Jは、喜びを体験していないのなら聖霊ではなく自我と共にいる、と言っています。そんな私は、不安を感じていない事はあっても、喜びを体験しているとも言えません。(中略) 私は概ね一貫してまあまあ良い状態にありますが、常に喜びに満ちている訳でもなく、赦すべきことは山ほどあります。どう思いますか?

(1:23) ゲイリー:まず第一に言わせてもらうなら、そのことで落ち込まないことだ。君が言っているような状態は、学習者にはとてもよくある普通のことだから。僕も含めてね。少なくとも君が苦しんでいない状態だということが大事。それは正しい方向への大きな一歩だ。これはすべてプロセス(道のり)だから。突然喜びに目覚めて、それが毎日のように永遠に続く、という話ではない。(中略)

(1:25) 他者を赦しの目で見ることによって、君にも徐々に喜びが訪れるだろう。それは自我を訂正することによる自然な展開だ。いつかはそこに到達する。ちなみに僕だって四六時中ハッピーな訳ではない。けど、いろいろ起こることを好ましく思っているよ。その喜ばしさは、外的な出来事によって左右されるものではない。(中略)

(1:26) コースは愛への帰還を呼びかけている。その愛とはちっぽけな人間の愛ではなく、途方も無い大きさの神の愛のことだ。キリストの心眼(Vision)はあらゆるものを同じと見る。肉体を見過ごし、あらゆるところに無罪性をみる。もし君がそれをやるなら、歴史上でそれほど多くの人が成し遂げたことのないことをやることになる。君は結構すごい事をやっているんだよ。

 

*****

。。。とまあ、こんな感じで。ちょっと個人的な感想なんかも:

 

まさか従兄弟だったとは

またもや2000年前ネタで恐縮ですが、あの洗礼者ヨハネとJが従兄弟同士だったというのはビックリでした。でもWikipedia洗礼者ヨハネを見ても「ルカによる福音書1章36節では、ヨハネの母エリサベトとイエスの母マリアは親戚だったという」と書いてありますから、それほどトンデモ情報という訳ではなさそうです。

そして洗礼者ヨハネヘロデ王によって処刑されたのも事実だったそうですから、洗礼者ヨハネに関しての記録はまあまあ正確なのかも知れません。でもそう言われてみると「ヘロデ王に対し舞の褒美にヨハネの首を所望したサロメ」の有名な話は本当だったのかな〜?などと思ったり。。。(かなりビジュアル的にも残酷な話なので、作り話であることを祈ります。。。!)

 

赦しの機会が欲しければ

あとそういえば、ゲイリーがこんなこと言っててちょっと親近感↓

(0:59) 誰かが君に意地悪するとき、それは彼らが自分自身についてどう感じているかを表しており、それを君に投影しているんだ。そのことを個人的に受け取らないこと。僕は赦しの機会が欲しければAmazonに言って自分の本のレビューを見るさ。(笑)

ちなみに、ほとんどのゲイリー本読者は星5つの高評価レビューを残してます。でも中には悪意あるDisレビューもあるらしく、ゲイリーはその都度、聖霊に切り替えて真実を思い出すようにしているのだとか。

それを他人事のように聞いてる私は「そんな一部の無責任なDisレビューなんか無視すればいいのに」と正論がよぎりますが、そんなに簡単に無視できるもんなら誹謗中傷で自殺する人なんかいないはず。。。

じっさい、たった1人の陰口であっても「ハイそうですか」と見過ごすのはなかなか難しいもんです(大勢だったら心折れるかも)。でも本当に心が癒やされていたら、自分がDisられているかどうかなんて全く気にならないんでしょうね〜。
(。-`ω´-)キリッ

ジュディ達のWeb講座:導きについて

7/15。

これ本当は5月ごろに出そうと思った話なんですけど、バタバタしてたら2ヶ月経っちゃいました(^^;)。4/24にFIPからジュディの講座配信を視聴したときのメモです。(この録画はYouTubeにはアップされてないけど、今のところ以下のURLからアクセス可能です)

 

Let's Discuss A Course in Miracles
Q & A on Guidance: Asking and Listening
https://zoom.us/rec/share/wfBeLZX5-31OaI3x7FH0ZLIuP4C7aaa8hnVIqPoMykvmuZCHaZx_tly55ZGqV6qu
April 23, 2020

 

今回のスピーカーはジュディ・スカッチ、ジュディの娘タマラ、Dr.ボブ・ローゼンタール(FIP講師)の3人で、視聴者からの「聖霊の導き」に関するQ&Aに答える形式で進められました。個人的に興味深かったやりとりを2つほどピックアップしてみます:

 

Q2. 聖霊の声とは実際に声として心の中で聞こえるものですか?それとも他の形もありますか?

(0:10) ジュディ:人々が聖霊の答えを受け取るかたちの豊富さを知ったら驚くと思います。学習者それぞれが多様な形でそれを認識しますが、それはどれもみな、自我と共に思考する心が問題だと捉えていたものを、神と共に思考する心へと持っていくことで解決するものです。

(0:11) ひとつ昔の想い出話を。私がヘレン、ビル、ケン達と一緒にいた頃、「何がサイキックで何がサイキックではないのか」という興味深い会話をしました。私たちが大学のヘレン達のオフィスにいたとき、ビルは嫌な予感がする様子で「シカゴにいて長年会っていない友人がトラブルに陥っている、どうか助けになって貰えないか」とヘレンに助けを求めました。するとヘレンは目を閉じて、素早く何かを書き留めたのです。それは「Call him. (電話しなさい)」というものでした。ビルが「いつ?」と聞き返すと、ヘレンは「もちろん、今すぐによ!」と答えたので、ビルはすぐにシカゴの旧友に電話をかけました。

(0:12) まさに!まさにその瞬間、この友人は真剣に自殺を図っているところだったのです!なのでビルは長いこと彼と電話で話をし、ヘレンも長いこと話し、その結果その友人は自殺を思いとどまりました。その後、ヘレンは数ヶ月にわたってこの友人のセラピストとして相談に乗り、彼が軌道に乗るまでサポートし続けました。この間、私たちはみな聖霊に尋ね続けたものです -- 「何が問題だったのですか?」と。そしてその答えはいつも「分離」でした。それは私たち皆が抱えている問題でもあります。

(0:13) というわけで、彼らはその友人に電話をするように導かれた訳ですが、これは聖霊の導きでしょうか?それともヘレンのメモ帳?ビルのサイキック能力?あのとき一体何が起こっていたのか?。。。その質問は的外れだったかも知れません。あの時ビルは、友人の助けを求める叫びを感知しました。そして心は繋がっているので、ヘレンがその輪に加わりました。聖霊はそれに対し非常にシンプルな「Call him.」という答えを返し、その結果は「平安」となりました。

(0:14) これは小さな事例に過ぎませんが、このような例は枚挙にいとまがありません。あなた自身にも、そのような例がたくさん思い出されることでしょう。そして、聖霊の答えは常に「あなたに分かる形」となってもたらされます。それはしばしば、優しさやユーモアを含んでいたりするものです。

 

Q6 私は、自分が気づける限りは常に聖霊に導きを求めるようにしています。時々、何かの出来事が起こったあとで、特定の方向に導かれていると感じる事があるのですが、これはよくある事なのでしょうか?

(0:51) ジュディ:私たちの道のりは高度に個別化されているように思います。聖霊は私たちの事をよく知っており、一人ひとりに最適化された学びの道が用意されているのです。だからこそ、他の人と奇跡を比較するのは意味がありません。聖霊はあなたに、その時に必要なものを与えますが、タイミングが適切でなければ与えることのできない答えというのもあります。

(0:52) ヘレンとビルはずっと、コースの原稿をどうすべきか尋ね続けていました。ヘレンは「原稿は封印するか燃やすかして、誰にも見せるべきではない」と主張しましたが、ビルは「この原稿を世界と分かち合いたい」と考えていました。そのビルの質問に対して答えが与えられた時のことです:

(0:53) ある日、ヘレンとビルとケンは共に座って「これは出版されるべきでしょうか?」と聖霊に尋ねました。その答えは全員とも確実にYESでした(ヘレンでさえも!)。「でも、どうやってそれが起こるのですか?」と尋ねると、ヘレンは明確に「誰かが現れて、その出版の役割を担う事になるだろう」という答え受け取りました。そこでヘレンは「いつ?」と尋ねたのですが、それには答えがありませんでした。

それから1ヶ月待ったけど何も起こらなかったので、ヘレンは自分で(出版に向けて)動き始めようとしていました。そのころ一連の出来事(4/9記事)が起こり、ビルは私(=ジュディ)と初めて出会うことになったのです。そのとき私たちは互いに繋がりを感じ、その後でビルはヘレンに「その役割を担う人を見つけたよ」と伝えたそうです。もちろん、私本人はそんな事になってるとは知りませんでしたけど!

(0:54) そこでヘレンが聖霊に「ではなぜ(その人が現れるまで)こんなに時間かかったんですか?」と尋ねると「彼女(ジュディ)にその準備が出来ていなかったからだ」という答えが返ってきたとのことです。

(0:54) "ジュディには準備が出来ていなかった"。。。!まさに、その通りでした。あのとき私は目を背けて逃げていたかも知れませんでした。私が(この役割を)受容し成長するためには、自分の人生に特定の出来事が起こる必要がありました。でもそれが1ヶ月という短期間で済んで良かったと思います。

(0:54) このように、ヘレンの問いはその時すぐには答えられませんでしたが、後になってから答えられました。その理由は、その質問をした時点ではまだ機が熟していなかったからです。私たちはこうした事(タイミング)を許容する必要があります。時間を与え、忍耐強く待ちましょう。「聖霊は私たちが助けを得るのに最善な時期を知っている」という信頼をもって。

 

*****

という感じで、やっぱりジュディの昔話はとても面白かったです。(^^)/
ただ、この配信についてはちょっと余談がありまして。

実はこの講座は、ジュディが3月にやった最初のWeb講座を受けてのQ&A的な要素もあり、中には例の、誰もが疑問に思ったであろう「聖霊に具体的なものごとを尋ねる」のジュディ見解 vs. 博士見解との矛盾点に関する指摘もありました。それは、次のようなものでした:

Q2. ワプニック博士は「聖霊にこの世的なものを求めるうちは、私たちは梯子の最下段にとどまることになる」と言ってます。でもジュディが言っていること「どんな具体的な事でも聖霊に導きを求める」も正しいように思えます。(説明お願いします)

さて、FIPの重鎮はこれに対してどんな回答をするだろう?と興味深く見守っていました。すると、ローゼンタール博士とジュディがそれなりに言葉を費やして回答してくれたのですが、2人とも要約すると「私たちはそれを矛盾と思ったことはありません」という、なんかふわっとした内容だったので、正直言って理論的に納得の行く回答ではありませんでした。(実際の回答は上記動画0:33-0:45あたりを参照ください)

ジュディの言によると、コース黎明期にヘレン&ビルを教師にして長年ケンと共に学んできたけど、互いの見解の違いについて語り合ったことは一度もないそうです。なぜなら、その必要がなかったから。2人とも、同時期に同じ教師から学んだ事がその確信を深めているようでした。つまり、互いに同じ理解を持っている、ということが当たり前すぎて、表現の違いについて理屈で考える必要が無かったのだと思います。

そんなわけで、ジュディが説明できないことをトベが説明できる訳がないと思って投稿を保留してました。でも、先日のJTT本11章(その1)の要約をしたときに、ワプニック博士の「聖霊に何を求めるにしろ、それは自我の思考体系を訂正するための求めであること」という回答が明快すぎて一気にスッキリしたので、まとめる決心がついた感じです。(^_^)

こんなふうに、博士節のほうが分かりやすいこととか、ジュディ節のほうが伝わりやすいことがそれぞれあると思うので、今後ともFACIMだけでなくFIP情報もウォッチしていきたいと思います!

FACIM読書会 7月 JTT Ch.11 (その2)

(つづき)

じつは読書会メンバーからの希望もあり、今回はテディさんに初のゲスト出演して頂きました。博士本に精通されてる方なので、以前からお招きしたいと思っていたところ、昨今オンライン会が普及したことによりはからずも初対面が実現した形です。短い時間でしたが、我々全員に非常に恩恵ある結果となり、一同感謝しております!(^^)

というわけで、JTT本 Chapter 11の後編いってみます。(またもや長くてスンマセン)

 

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

 

★Chapter 11 -- God or the Ego p59 (No.10092)

 

Looking p75 (No.10665)

No.10706/p77  We do not have to fear the ego's nothingness. Only our belief in...
・私たちは無である自我を恐れる必要はない。ただ私たちの「幻想への信念」だけが、それら(幻想)を危険なものにしている。なぜなら、幻想そのものは私たちに影響を及ぼすことなど出来ないから。
・自我の「闇」に対して何もする必要はない、それは文字通り無であるから。だが、私たちの「闇への信念」については絶対に手を打たなければならない。

Oneness p78 (No.10739)

No.10771/p78  The Holy Spirit, rather, teaches us to accept our scripts as we live...
聖霊は私たちに、人生の台本を受け入れるように教えている。「重要なのは、人生の出来事に対する我々の姿勢や応答のしかたであり、出来事そのものではない」ということを私たちが学べるように。

Forgiveness p79 (No.10795)

No.10827/p80  We justify our exclusion of certain people from the light by saying...
・私たちは、特定の人々を除外することを正当化する理由として「彼らのほうが先に攻撃してきて、除外されることを望んだのだ」と言う。しかしJが私たちに認識して欲しいのは、「そのような裁きは兄弟を除外するだけでなく、自分たち自身も天国から除外してしまう」ということ。そのようにして私たちは「個別性と分離」という地獄の闇に取り残される。

No.10875/p81  Blame is removed when we bring our guilt back within and look at it...
・非難が取り除かれるのは、私たちの罪悪を(外側ではなく)内側に引き戻して、それを見つめるとき。するとそれ以上、その罪悪を外側に見たり、外敵を打ち負かすことでそれを訂正しようとはしなくなる。
・悪人とは私たちであって、彼らではないのだ(彼らがどんなに酷いことをしたとしても)。私たちはこの世界にいるという時点で、自分たちが想像しうる限り最悪な罪を犯した悪人であることを知っている。だがそこでの大きな誘惑とは「正義と無罪性という衣に隠れ、世界に敵を見ることで心の罪悪感を否認する」こと。

No.10898/p82  "Come wholly without condemnation..." The word "wholly" is why...
・(T-11.IV.6:2)「ただし、まったく咎めをもたずに来なさい」の「まったく」という言葉が、このコースをとても難しいものにしている。私たちは、例外なく赦さなければならないのだ。

No.10935/p83  Projection makes perception. What we perceive in others is an...
・投影が知覚を作り出す。私たちが他者に知覚するものは、心が「自我の分離 / 聖霊の一体性」のどちらを選択しているかを反映する外的映像。劫罰や救済は決して外側には見いだせない。なぜならそれらは心の中の想念だからだ。
・それらを外側に知覚しても、それらが実在することにはならない。だがそれらの想念を(外側に)投影してからというもの、私たちは分離、喪失、死といった幻想の証拠として世界を用いてきた。
・一方、「別の道があるはずだ」と気がつくならば、私たちはキリストを証しするものを知覚することになる:兄弟は「愛を表現しているか、愛を求めて叫んでいるか」であると。

Resurrection p85 (No.10993)

No.11065/p87  Jesus is telling us: "If you truly want to be my disciples, learn from...
・(T-11.VI.7:3-4) Jはこう言っている:「私の使徒になりたいのなら、私から学び、私の教える復活を世界に教えなさい。言葉や行いによってではなく、その愛をあなたが体現することによって示しなさい。それこそが私があなたの中に生きている証拠であり、復活すなわち "神の子は死の夢から目覚めた" ということが事実であると証しするのだから」と。
・実際、Jならこう続けるだろう:「"私は主を愛します”、などと言わないように。それより、私が教える愛の思考体系によって、あなたの愛を手本として示しなさい。私のもとに、咎めの想念の十字架や、他者の肉体に打ち込もうとしている釘を持ってきなさい。私がそれらの正体を見抜くのを助けてあげよう。それらは、あなたが犯してしまったと信じているものの投影であり、実相においては何も起こっていない。死の夢は終わっており、あなたの復活した目は真実を見るために喜んで見開くだろう」

The Real World p88 (No.11119)

No.11122/p88  As Jesus will explain, though the very term is contradictory because...
・世界が実在のものでない以上、「Real World (実在の世界=実相世界)」という言葉は矛盾しているようだが、実相世界とは天国の実在性を反映するもの。同じように、この世界での人間関係は決して聖なるものではあり得ないが、分離を赦すことによる「聖なる関係」は、天国の聖性/一体性の反映する。
・従って「実相世界」も依然として幻想ではあるが、それは私たちの心が「ここにある全てことは夢であり、天国の一体性に対する防衛である」ということを確かに知った状態であり、幻想の終わりに位置するもの。

No.11141/p89  When Jesus appeared here, he was already in the real world, which...
・Jがこの世界に現れたとき、彼はすでに実相世界にいた。だからこそJは、彼の身にふりかかったいかなる出来事にも影響を受けなかった。たとえ聖書の記述にあるようなことが文字通り起こっていたとしても、彼は何も起きてはいないと知っていた。実際、彼は自分がこの世界には存在しないと知っていたのだ。
・私たちがJと呼ぶ存在は、ただ夢の登場人物(世界がJと呼んだ人)を観察していただけ。彼自身がその登場人物だったというわけではない。
・そして彼はいま、私たちがその癒やされた知覚の状態(実相世界)に到達することを助けてくれている。

No.11146/p89  A loving thought is any thought that embraces the Sonship as a...
・愛ある想念とは、「全体としての一なる子を受け入れる」と同事に「いかなる形の特別性も見ることはない」という想いのすべて。これらの想念は、赦し、平安、癒しといったものを含む。それらは「神の完璧な愛」の反映となる。

No.11150/p89  The real world is not Heaven, but it is the final step before its...
・実相世界は天国ではないが、天国に到達する最終ステップではある。それは依然として知覚する状態(夢を見ることに関わるもの)だが、「それが夢である」という理解を伴っている。

No.11166/p89  Good and evil do not exist in the real world, for the healed mind...
・実相世界には善悪の区別は存在しない。癒やされた心にはあらゆるものが幻想として映るから。それは善でもなく、悪でもなく、「無」なのだ。実相世界には区別というものがない。これが、私たちが天国の非二元の状態に目覚める前に、最も天国に接近した状態である。

 

*****

JTT本11章からは以上です。
超絶トリビアですが、今回No.11141の一節にふと目が止まり、そこから興味深い事が分かってきたので、経緯を記しておきます:

 

博士節とA&Pメッセージが交差するところ

「Jは地上にいたとき既に悟っていて、十字架刑によっても苦しむことはなかった」というのはゲイリー本(神の使者etc)からコースに入ってきた人にとっては暗黙の了解となっていますが、これってよく考えたら聖書学的な常識を覆すようなトンデモ情報です。しかも情報源がA&Pという謎のアセンデッドマスターだったりするし。笑

一方、ワプニック博士は論理的かつアカデミックなアプローチの方なので、トンデモ情報を話したりはしません。ですが、このNo.11141ではチラッとですが「Jはこの世界にいた時、いかなる出来事にも影響を受けなかった」と言い切っています。まあ、博士がそう断言するからには、テキスト(T-6.I等)を根拠にした厳然たる論理的帰結として述べているのでしょう。

とはいえ、博士は初期の著書(Forgiveness and Jesus等)では2000年前の出来事については「Jなら...だったはずです」という憶測の形で触れる事はあっても、断言することは滅多にない印象だったので、個人的にはこの一節はやや異例に映りました。そしてこれを読んだ時、ふとA&Pのメッセージが重なって感じられ、ハッとしたのでした。

ちなみに、このJTT本の元となった博士の講義が行われたのは2001〜2002年です。一方、ゲイリー本「神の使者(D.U.)」が初めてFearles Booksから出版されたのが2003年5月(その後Hay Houseから2004年11月に出版)。つまり1年くらい時間差があるので、博士が出版後のゲイリー本を読んでA&P情報に触れたという事は考えにくい。。。と思いきや〜、

ゲイリーは「神の使者」を出版する前の2002年4月にワプニック博士(当時FACIMでコース関連の著作権を管理していた)にD.U.の原稿を送っており、その一ヶ月後に「コースからの引用をすべて認める」という返事を受け取ったとあります(不死本 p19)。なので、博士がこの講義を行なったとき、A&P情報と接点があった可能性が出てきました!

。。。という超どうでもいい閃きをもとに、博士がこのJTT講義のレクチャーを行なった時期を調べたところ、なんと2001年9月〜2002年5月に開催されたそうです(出典はこちら)。9ヶ月で31章+αの講義を行なったわけですから、1ヶ月毎に3-4章ペースの計算です。ということは、この講義(11章)を行なったときは2001年11〜12月ごろと推定されます。残念!この頃はまだゲイリー原稿は届いてなかった!(≧∀≦)
※でも2002年4-5月に28?〜31章をやった頃には確実にD.U.原稿を見ていたはず。

最初、博士がゲイリー原稿を見てA&Pメッセージを支持したのでは?と1人で盛り上がってたんですが、11章の段階では時期的に数ヶ月ニアミスでした。しかし、だとすると上記の断定形は、博士が独自に、かなり確信をもってA&P情報と同じ結論に達していたことの証でもあるように思えます。それって尚更すごくないですか?(晩年の博士は、ご自身の神秘体験については口を閉ざしてますが、必ず何かあったはずだと思うのは私だけでしょうか...)

以上、すべて私の推測に過ぎませんが、あの博士の一言からA&Pとのシンクロを感じたのはなかなかロマンでした。我ながらトリビア万歳です。(^^)

おまけ:博士とゲイリーの繋がり

日本では「ワプニック博士はゲイリーなど相手にしなかった」と思ってる人が多いようですが、実際には彼らは非常に親しくつきあっており、博士がゲイリー達を会食に招待したり手紙を交わしたりして、博士が2013年に亡くなるまでずっと温かい交流を続けていました。(この辺のプライベートな交流は、ゲイリー講座およびアルゼナ紹介からも垣間見ることができます)

ただ、博士のアカデミックな立場からは、信憑性を担保できないゲイリー本を公に推薦することはできなかった、という事についても理解が必要です。そのへんを公私混同しないことは、FACIMのトップとしてごく常識的な配慮かと思います。

確かに、博士がACIM界では最も権威ある教師であることは疑いありませんが、だからこそ、その博士がプライベートにおいてはゲイリー達を兄弟としてリスペクトしていた、ということを我々も尊重すべきではないでしょうか。

 

FACIM読書会 7月 JTT Ch.11 (その1)

7/11。

今回も紆余曲折ありましたが無事に開催できました。7月に入って都内の感染者数が一気に増えたことを受けて、オンライン開催を希望したのは私ですスンマセン。(高齢両親のリスク避けたく...)。

そんな我々ですが、読み進めは各自着々と進んでいます。私からはJTT本11章の要約シェアということで、いつもどおり2分割で投稿デス。ちと長いですがご容赦ください。

 

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

 

★Chapter 11 -- God or the Ego p59 (No.10092)

 

The Authority Problem p60 (No.10119)

No.10169/p61 This is an example of projection: believing we are absent from God...
(T-11.I.5:3)「もしあなたが自分は神のもとに居ないと信じるなら、自分のもとに神が居ないと信じることになる」より:
・これは投影の一例。私たちが神から離れたことで「自分は神のもとに居ない」と信じることにより、必然的に「自分が神を見捨てたのではない、神に見捨てられたのだ」と信じることになる。
・これは「両親や信頼する人々(妻や子供etc)から見捨てられるというパターンを、なぜ自我が大いに好むのか?」ということの説明になる。自分が見捨てられたということは、自分に罪があるのではなく相手に罪があることの証拠となるからだ。
・しかし、こうした投影にも関わらず、私たちの隠された罪悪の想念(T-27.VII.11:7密かな夢)はその逆のことを告げる:「私たちこそが見捨てた側であり、罰されるべき存在なのだ」と。

No.10225/p62 The source of the delusional system is the belief that the separation...
・妄想の思考体系の源は、「神からの分離は真実であり、我々がこの現実の作者である」という信念である。その想念に続くすべてのものは妄想とならざるを得ない。なぜならそれは妄想から発しているから。狂った想念は、その狂った源を離れない(insane ideas leave not their insane source)。

No.10263/p64  Another subtheme in the Course is the contrast between the ego's...
・自我の願望(wishing)と神の意志(willing)の対比はコースの副テーマのひとつ。「願望(wish)」は自我または分裂した心(知覚世界の二元的な体験)を表す。一方で「意志(will)」は神のものであり、智識の非二元的な状態を表す。wishing(願望)とwilling(意志)の対比は、非実在と実在の間に存在するかに見える対立を反映している。

No.10290/p64  For example, some say they yearn for God and want to be with Him...
・例えば「私は神を切望しており、神と一体になりたい」と言う人がいるが、それが真に表現しているのは、ほとんどの宗教に見られるのと同じ「神との特別な関係を結びたい」という願望である。
・私たちは神を渇望するが、そもそも自分たちが分離したと信じたのでなければ、神と繋がりたいと望むはずがない。それは単に、私達が訂正しようとしている想念そのものを強化するだけだ。
・本当のところ、私たちが神と繋がろうとする必要はなく、私たちがすでに神とひとつであったことを受け入れるだけで良いのだ。

No.10367/p67  Simply because we closed our eyes, meaning the mind's ability to...
・(T-11.I.5:10) 単に、私たちが目を閉じてしまった(=聖霊を見たり聞いたいする心の能力を遮断した)からといって、聖霊がそこに居ないとか、私たちには聖霊に気づく能力が欠如している、という事にはならない。

The Ego's Fear of the Atonement p68 (No.10413)

No.10467/p70  We cannot accept God's Will while in a state of conflict, for if we...
・私たちが対立の状態にある間は「神の意志」を受け入れることはできない。神の名において他者に戦争を仕掛け、彼らを滅ぼすことが神の意志だと信じるならば — 残念ながら歴史を通じてその通りだったが— 私たちは決して平安を見出すことはない。
・神の平安が私たちのものとなるのは、対立/支配/征服の余地などない完全性 (全ての人々、全てのものを、全ての時において包含する完全性) を、私たちが認識する時だ。

A Course in Miracles p70 (No.10491)

No.10506/p71  Jesus tells us his course is perfectly clear, which is what we fear...
・Jはこのコースが完全に明解であると告げており、私たちはそのことを恐れている。「コースの原理を生きること」がこのコースを難しいものにしているのであり、使われている言葉や文体が難しいのではない。
・ACIMの究極のゴールは、世界と肉体が幻想的であることを私たちに教えることだ。そして私たちは、「別の見方で状況を見させて欲しい」とJに助けを求める度に、自らの独自性の棺に釘を打ち込むことになると、心の奥底では知っているのだ。
・この選択の不可避性を恐れるあまり、私たちはコースの教えを「分離と特別性を強化するもの」に変更しようとする。

No.10526/p71  This is an important passage because it could easily be taken out of...(T-11.VIII.5:4)「求めれば与えられると告げられる以上に、具体的なことはあり得ない。あなたが問題は具体的なものだと信じている間は、聖霊はどの具体的な問題にも答えるだろう」より:
・これは重要な箇所。この一節はいとも簡単に文脈を省かれ「聖霊に具体的なものごとを求める」ことを正当化するために使われがち。
聖霊に助けを求めることが意味を持つのは、それが「自我の思考体系を訂正するための求め」である時に限られる。駐車スペースや、癌の治癒や、世界平和などを求めるためではない。
・しかしながら、私たちが特別性に基づく二元的な世界を信じている以上、私たちの求めに対する聖霊からの愛の答えは具体的なかたちをとることになる。この一節でJが言っているのはそういう意味。

No.10534/p72  Accordingly, we should not take the above passage to mean that...
・従って、上記の一節を読んで、Jが本当に具体的なものごとを求めるように言っていると捉えるべきではない。
・念のために言うならば、私たちが特定の肉体であると信じている以上「聖霊に具体的なものごとを求める」のはスタート地点としては良いだろう。しかし、Jは私たちがいつまでもその体験に留まることを望んではいない。

No.10565/p72  Our true problem is not cancer, AIDS, or a dwindling bank account...
・私たちの真の問題は、癌でもAIDSでも減りゆく銀行残高でもなく、「私たちは源(神)から分離してしまった」という信念。
・我々は今まで問題を取り違えてきたのであり、唯一意味ある質問とは「私たちが欲しいのは問題なのか?答えなのか?」である。その答えは必然的に贖罪であり、それは「神がその愛と引き換えに要求するものは何もない」と教える。真実には、私たちはかつても今も神の愛以外の何者でもない。
・Jはコースが助けになると約束しているが、我々のほうがその助けを受け入れたいと思うために学ぶ必要がある。霊的な子供から大人へと成長し、我が家に帰還するために。

Children p73 (No.10571)

No.10589/p73  Jesus refers to discussions on perception within the field of...
・Jは心理学の分野から知覚について述べている。私たちが知覚するものは、物理的な感覚器官から伝達されるものではなく、私たちの心がそれらの感覚データをどう解釈するかによって決まる。
・例えば、私たちの目が「振り上げられた拳」や「怒った声」「爆弾を落とす人々」「銃を撃つ人々」を目撃したなら、私たちの脳はこれらの振る舞いを常に「攻撃」だと解釈する。すなわちそれは「心の罪の邪悪な表現であり、報罰に値する」と。
・しかし、こうした行動を解釈するには別の方法もある。聖霊は「攻撃とは恐れの表現である」と理解しており、それは「否定された愛を求める呼び声」であると見る。
・知覚というのは私たちが「客観的」に見るものではなく、見たものをどのように解釈(自我/聖霊)するか?ということ。この決断が私たちの応答を決定する(現象世界で何が起こっていようと関係なく)。
・Jが「あなたがたはまるで幼子のようであり、知覚しているものを理解していない」と言うのはそういう意味。だが我々は傲慢にも自分は理解していると信じている:「攻撃はどうみても攻撃であり、報復が必要だ」と。だからこそ私たちは、その逆を教えてくれる教師が必要なのだ。

No.10653/p75  As do children, we see ghosts, monsters, and dragons all around...
・子供たちがそうであるのと同じように、私たちも、身の回りのあらゆる所にオバケやモンスターやドラゴンを見ている。我々はただ、それらをもっと洗練された名前で呼んでいるだけ。国家のリーダーはそれを悪の枢軸と呼んだり、個人レベルでも意地悪で邪悪な人々がこっちを傷つけたり陥れたりしようとするのを見る。こうしたものが、私たちを日々包囲する恐ろしいモンスター達。
・こうした説得力のある証人(知覚)があってもなお、私たち(学習者)は「外に知覚するものは単なる投影であり内なる恐怖である」ということを学んでいる。その恐怖というのは、復讐の神と対立しているという信念から来ているのだが、これらの全てが空想の産物であることに変わりない。
・外に知覚されるかに見えるモンスターは決して恐ろしいものではなく、私たちの内なる罪悪の象徴でもない。肉体と心の両方のレベルにおいて、知覚というのは文字通り「苦しみという想像による虚構」なのだ。

*****

聖霊に何でも尋ねる問題

ちょっとスッキリした事をひとつ。先日のジュディのWeb講座で出てきた「聖霊に具体的なものごとを尋ねる」事にまつわる疑問が、上記で解決したからです。(No.10526、No.10534参照)

今までモヤモヤしてた理由は、ジュディが「どんな具体的な事でも聖霊に尋ねましょう」というスタンスなのに対して、ワプニック博士は日頃から「聖霊に具体的なものごとを尋ねるべきではない」と言い続けてたからでした。これ、行動面だけを捉えると完全に矛盾しているので、どう解釈するかまとまらなかったのでした。

でも今回、博士は「聖霊に助けを求めることが意味を持つのは、それが自我の思考体系を訂正するための求めである時に限られる」という明確な基準を示してくれています。また「我々がこの世界にいると信じている以上は、聖霊の答えも何らかの形態としてもたらされる」ことについても否定していません。

その観点であれば確かにジュディの見解とも矛盾しない!という事にやっと気づいて、目からウロコだった次第です。つまり焦点となるべきは聖霊に具体的なことを尋ねるか否かではなく、何をするにしてもその目的が「自我の訂正」であるかどうか、ということだったんですね。

というわけで、ジュディvs.博士の矛盾のように感じたのは、私のフォーカスがずれていたからだったのでした。あーすっきりした(^_^;)

というわけで、次回 Chapter 11 (その2)に続きます!

 

ゲイリー達のオンライン講座 (43)

 6/27。

開発作業などが重なって毎度遅れ気味ですが、日本時間6/16配信のオンライン講座 The Two Pictures, from ACIM Chapter 17, Section IV (Part1)を視聴しました。

 

講座の本編

6月のテーマはテキスト17章「IV. 二つの絵」です。ここは「額縁」と「絵」の比喩で非常にビジュアルに描写されているだけあって、解説も力が入ってました。自我の目的vs.聖霊の目的が対比されている箇所の中でも特にインパクトありますね。

 

[ゲイリー]

(0:19) 古いことわざで「幸せになるのに理由なんか要らない。だから理由なしに幸せになりなさい(There's no reason to be happy, so be happy for no reason.)」というのがある。コースが与えてくれる選択肢とはそういうものだ。この世界で幸せを探そうというなら、どうぞ頑張ってくれたまえ。そのやり方だって、たまには上手くいくことがあるからね(笑)。だけど、この「二つの絵」というセクションでは、コースとそれ以外のあらゆる教えとの違いが鮮明になっている。

(0:20) それらの教え(ニューエイジから哲学まで)というのは、この世界を砂糖でコーティングするようなものだ。夢(形態)のレベルで上手くいくようにとか、欲しいものを手に入れようとか。それも一つの方法ではあるが、それは偽りの土台に立っている。僕の経験から言っても、そういう幸せは楽しいかも知れないけど、その幸せは永遠ではない。ハッピーでいられたとしても2-3日だろう。

(0:21) 「二つの絵」では、自我は君に額縁のほうに注目して欲しいと思っている。それはとても精巧で立派で魅力的な額縁だ。それが自我の世界であり、その世界で何を得るかということに主眼が置かれている。自我は夢の中のあらゆる華やかなものに注目していて欲しいんだ。

(0:23) だが、その額縁(自我の偽りの偶像、特別な関係性)に近づいてよく見れば、ダイヤモンドは涙で、ルビーは血のしたたりだ。そこで聖霊は、額縁ではなく絵のほうを見るよう促している。額縁に気を取られてはいけない。自我は注意を逸らすのが大好きだ。自我はそうやって僕たちを真実(心)から引き離しておこうとする。

(0:24) 人生では、生まれた時から死ぬまで終わりなき問題の連続だ。ある問題を解決して人生で成功したかと思えば、すぐまた別の問題が出てくる。この世界にいる限りそれは終わらない。ウイルスとか核戦争とかね。それが涙のダイヤであり、血のルビーだ。殆どの人は人生の半分をダイヤやルビーに費やしてる。いつか「もっと良い方法があるはずだ」と気づくまではね。

(0:26) こんな話を聞いたからって、がっかりしないで欲しい。解決する方法はあるからだ。コースは常に自我に対する解決策を示している。A&Pと話していると、あらゆることが赦しにつながり、赦しは愛につながる。そして愛は全ての解決策だ。君が絵のほうを本当に注意深く見れば、自我の世界が幸せなものでない事は分かる。ケン・ワプニックがよく冗談で「ここは幸せな世界ではないし、正しい心にいる人なら誰もこの世界に来たりはしないでしょう(This isn't the happy world, and nobody in the right mind would come here)」と言っていたように。

 

[シンディ]

(0:45) あなたがコースをよく理解していると思っていても、不意打ちはやって来るものです。自分はすごく腑落ちしてたはずなのに、こんなに動揺するなんて。。。というのは「信頼の深化(M-4.A)」のセクションで「まだ自分で思っているほど遠くまで来てはいない(M-4.A.6:10)」という状態です。多くの人がこれを体験しているはず。自分の赦しは順調で、何もかも上手くいってると思っていても、突然ボン!と事件が起こって動揺せずにいられない自分に気がついたりしますよね。そんな時、私たちは謙虚な気持ちになります。一歩下がって「やっぱり自分はまだ分かってなかったみたいだ」と。

(0:46) だけど、それで全く問題ありません。まず、自分に優しくすること。自分に対して忍耐強くあること。そして自分自身を赦すこと。これは一朝一夕にできることではなく、生涯にわたる実践のプロセスなのですから。そのことを覚えていれば、実践において様々なことがより穏やかに、より簡単になっていくでしょう。

私も不意打ちに遭ったりするけど、そのときの自分の反応が、思ったより穏やかになってきていると思います。私はまず、それ(感情)に気がつくようにしています。そのことで自分を裁いたりせずに、ただ自分がその感情を感じるに任せ、その想いがどこから来ているかを理解したうえで、自分の想念に全責任を持つのです。

それが(外の出来事からではなく)、自分から来ているのであれば、自分の側に(選択の)力があるという事です。だから私たちは「赦して、選び直すことができる」のです。つまり、それを聖霊のもとへ持っていき、訂正してもらうということ。だからこそ、あらゆる出来事が助けになるというわけです。

 

 

Q&A

今回のQ&Aはそんなに興味深いトピックがなかったので割愛しますが、7月になったらまたQ&A祭りをやるそうです!

 

*****

6月分のPart1はこのへんで。

ちなみにシンディは冒頭で「数日前の夜中に寝ぼけてトイレに行った時、ドアが閉まってるのに気づかず扉に激突してしまったの」と笑いながら話してくれました。 シンディはその場ですかさず赦しを実践しながらベッドに戻ったそうです。ただ、結構はげしい衝突だったので、翌朝アザなどでひどい顔になっているだろうと思いきや、目覚めたらいつもどおりだったとのこと。(ちなみにゲイリーは、シンディの激突音に気づいたものの「大丈夫かいベイビー?」と言ったきり寝落ちしてしまったとか。笑)

今回のシンディの「不意打ち」の話は、そんな直近の出来事とも重なっていたせいか、とても伝わってきたと思います。彼女がドアに激突した時にまず思ったのが「この出来事も赦しに使えるわ!」だったそうで、さすが赦しの反射神経がハンパないですね。

シンディは講座ではあまり具体的な話はしないというか、いつも形而上学的な話がメインという印象でした。でも最近は、タイタニック博物館の話(前回)や、今回のドア激突事件など、自分の出来事を交えて話してくれることが増えたかな?そうやって具体例と実践を絡めて話してくれると、なかなか面白いです。(^^)