ACIMタッチアンドゴー

奇跡のコースに復帰してのあれこれ

FACIM読書会 5月 JTT Ch.9 (その1)

5/2。

本来なら4月開催に相当する読書会ですが、4月は全員の都合が微妙に合わず、5月開催になりました。外出自粛ムードの高まりを受け、初のZoom読書会です。まあ初とはいっても気まぐれでZoom茶会したりしてたので、我々もだんだんとオンラインで会うスタイルが定着しつつある感じですが。。。

さて今回分からは、私が「電話帳」と呼んでいるJTT本4冊組のうちやっと2冊目に入ります。紙本のページ番号がリセットされて、ちょっとフレッシュな気分!?ただ、今回の要約でうっかり9000字くらい行ってしまったので、久々に3分割します。

 

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.2)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

 

★Chapter 9 -- The Acceptance of the Atonement p1 (No.8171)

 

The Ego's Fear of the Atonement Principle p1 (No.8182)

No.8213/p2 We are always in a state of panic, except that most of the...
・私達は常にパニック状態にあるがほとんどの場合その事に気付いていない。そのパニックが私達を心の外側(世界)へと駆り立てたのだが、私達は恐怖を覆い隠すのに長けており、それを外部に投影することはもっと長けている。
・Jは明らかに「ひとたび私達がパニック状態にあれば、学ぶことは出来ない」と教えている。例えば私達が学校の先生を恐れていたなら、その先生がどんな素晴らしい事を教えてくれても、学ぶことは出来ないだろう。受容の状態にあるときしか学び得ない学習を、恐れは阻害してしまう。
・真の学習とは思い出すこと。なぜなら真実はすでに私達の内にあり、受容されるのを待つばかりなのだから。恐れはそれを隠蔽し、思い出すことを不可能にする。自我はもちろん私達に学んで欲しいとは思っていない。意味ある学びとは「学習を解くこと」であり、自我は決してそれを望まない。

No.8251/p3 The Holy Spirit is not interested in form, which He does not ...
聖霊は形態には関心がない。聖霊にとってそれは単に、分離の想念の”影のような断片”に過ぎない。だからこそ、行動のレベルで聖霊に助けを求め続けるような事は、コースが教えるあらゆることに真っ向から対立してしまう。
・もちろん(コースには)私達が聖霊に具体的な助けを求めるように、と書いてある箇所はいくつかある。だがそれはJが梯子の一番下(自分が肉体だと信じている段階)で我々と向き合ってくれているからに過ぎない。梯子を登っていくにつれて、この世界には助けが必要な事など何もないと気づくことになる。なぜなら、この世界で起こることが問題ではないからだ。

No.8273/p4 Several years ago, I be an using the statement that the world...
私は何年か前から「世界とは存在しない問題に対する役立たずの解決策である(the world is a maladaptive solution to a nonexistent problem)」という言い回しを使っている。役立たず(不適応)と呼ぶ理由は、世界が上手くいかないから、そして我々を幸せにしないから。もっと言うと、世界とは「心の罪悪という存在しない問題」に対する解決策だから。自我は「存在しない罪悪」を抑圧し、それを一見リアルに見えるような肉体の世界へと投影したのだ。

No.8371/p6 When we attack something, we have obviously made it real...
(T-9.VII.4:5-9)「したがって、あなたが愛をもって応答するとき(中略)...自我が猜疑心から凶暴性に突如として移行するのは、このときである」より:
・ここでJが言っている凶暴性というのは、私達がきちんとレッスンをやったり、真に助けを求めたり、不満/裁き/被害者意識などを手放そうとするときに体験するもののこと。
・自我が分離を実在のものとする2つの主要な方法とは、攻撃と病気。それは①怒ったり自分を正当化したりすることで他者に対して凶暴になるか、②肉体的または精神的に病むことで自分に対して凶暴になるか、のどちらか。
・例えば私達は仕事をサボって職を失ったり、新しい車で事故にあったりする。私達は「自我が正しくJが間違っている」と証明するためなら何だってやる。それが「L136 病気は真理に対する防衛である」のメッセージ。真理が心に理解され始めると、自我はそれを攻撃し「真理は心や霊ではなく肉体にしかあり得ない」と言う。私達はその後ただちに、病んだり、怒ったり、鬱になったり、人生に不満を持ったりする。

No.8381/p7 Again, it is important to recognize these dynamics so that...
・(自我の)こうした力動を認識することは大事。なぜなら自我の凶暴性が発現した時に、その理由を理解できるから。そうした事が起こるのは、私達が落ちこぼれの学習者だからではなく、私達がそれだけ恐れているからなのだ。
・私達の恐れが増大するのは、私達がこのコースを真剣に学び始めるとき。そしてJが、私達が自分だと思っている肉体に語りかけている訳ではないと認識し始めるとき。そもそもJがなぜ、存在しないと言っている肉体に対して語りかける必要があるというのか?
・Jは心の「決断の主体(誤った選択をし、その事を忘れてしまった部分)」に語りかけている。私達が "その決断する力" に気付き始めるにつれ恐れは増大し、こんな囁きが聞こえる:「お前がこれを続けるなら、神に滅ぼされるぞ。忘却の淵に放り込まれ消滅してしまうぞ」と。この時こそ、自我が大砲を持ち出し、その存在を防衛する時なのだ。


No.8530/p11 Willingness in A Course in Miracles is always a synonym for...
・ACIMにおける「意欲」とは常に「決断」と同義語である。私達の「自我を我慢する意欲」というのは、私達が「自我をリアルにするための決断」から来ている。

No.8545/p11 The Holy Spirit’s Atonement principle is the gentle smile that...
聖霊の贖罪の原理とは、小さな狂った想念を見つめてそれを見過ごす優しい微笑みのこと。なぜならそれは無に過ぎないから。聖霊は、誤りを実在のものとした上でそれを解決しようとはせず、単に「誤りとは何のことか?完璧なる一体性を変化させるような事など何も起こってないというのに。—“ 天国の歌から1つでも音が抜け落ちることはなかった(T-26.V.5)”」と言うだけなのだ。

 

 
*****

ちょっと個人的にタイムリーな箇所があったのでひとこと。

上記のNo.8251/p3にある「行動のレベルで聖霊に助けを求め続けるような事は、コースが教えるあらゆることに真っ向から対立する...」というのは典型的な博士節であり、耳タコ案件です。しかしこのことが、先日のジュディの発言(金策も含めたあらゆることについて聖霊に尋ねる)と全く相入れないように感じられて、しばらく悶絶してました。それでもなお、博士とジュディの言葉が矛盾しない理由を考察することは、コースを立体的に学習していく上で重要なポイントになってくる気がしている今日このごろです。

詳しくは次回のジュディ講座に譲りますが、少なくとも、かつて博士自身もグループ内で具体的な質問を行なってきた、という事実は考慮される必要があるかと思います。ではなぜ、博士は自分が生徒達に教えるときにそのやり方を推奨していないのか?それは、創始メンバーである彼ら4人が "常時どのレベルにフォーカスしていたか" に関係していると思うのです。私たちがその違いを理解しないまま形だけを真似したら、かなり高確率であさっての方向に行ってしまう、という事を博士は "教師の立場" から見抜いていたのでしょう。

(一方でジュディは、教師としてではなくFIPの中核者として、純粋に自分の体験に基づいた話をしている、という構図になるかと思います。)

ここで気づいたのは「博士の教えだけが絶対的に正しい」という正統性に固執するあまり「ゆえに、ジュディ/ヘレン/ビルのやり方は間違っている」という正誤ジャッジに陥るのは誘惑の典型例である、という事です。このことを形態ではなく内容の観点から吟味するならば、「ものごとに矛盾を見つけて誤りを指摘する」or「表層的な違いを見過ごして正しさだけを見る」という選択肢の問題に行き着くように思います。(奇しくも同じCh.9に「III. 誤りの訂正」というセクションがあるので、今回併せて思いを馳せる機会があって良かったです)

 

。。。というわけで、Chapter9 (その2)に続きます!