ACIMタッチアンドゴー

奇跡のコースに復帰してのあれこれ

ゲイリー達のオンライン講座 (27)

10/12。

超大型台風でドキドキ状態のなか、オンライン講座 The Alternative to Projection, from ACIM Ch.6, Section II を視聴してました。こちらは日本時間で10/11に開催された分です。ゲイリーはちょっとお腹の調子が悪かったようで、話の途中で何度も離席してました。でも身体の不調をあるがままに受け入れつつ普通に講座をこなすゲイリーの在り方から学ぶものは大きいです。

 

講座の本編

そんなわけでゲイリーは前半の半分しか居なかったのですが、今回もきっちりT-6.II「投影に代わる選択肢」のお話でした。貴重な(?)ゲイリーの話を一部メモ。

 

[ゲイリー]

(0:17) このセクション「T-6.II 投影に代わる選択肢」僕が初期の頃からお気に入りだった箇所なんだ。最初から意味が分かってた訳じゃないけど。まず、僕らは神から離れたと思った。エゴはそれを真実にしたくて、それを正当化するために神に対抗して投影したわけだ。こんなふうに何かから分離したという考えは「解離(dissociation)」という。解離によって、その分離を正当化するための投影することになる。この世界においては、その投影をするための他者が必要になる。

多くの人にとって理解が難しいのは、自分が投影している時に「自分が正しい」と思ってしまうことだ。その投影に対しての聖霊の選択肢は:「あなたは自分が正しいことと、幸福であることの、どちらを好むだろうか?(T-29.VII.1)」となる。もしそう聞かれたら、殆どの人は幸せのほうを好むと言うだろうが、実際には正しさを好むような振る舞いをしている。こんな風に、エゴはとてもトリッキーなんだ。

(0:19) 僕らは分離を正当化するために他者に投影する。そのことを知った上で注意深くみていくなら、スクリーン上の誰かが問題なのではない、と気づくのはさほど難しいことではない。自分が正当化している時にとる形というのは、自分の正しさ気持ち良く感じる程度のものから、怒りにまで発展するものもある。そこで君がしなくちゃいけないのは、どんな形であれ「正しくありたい」と思った時に、そのことに気づくこと。そしてこう自問する:「自分はこれを(主観なき)事実として正しいと思っているのか?それとも分離を正当化するための投影の観点から正しいと思っているのか?」

この事が古典的な形でよく現れる例は政治だ。僕らがTVで見る政治家たちは、自分たちが正しいと心から確信している。そしてそれはしばしば怒りという形に発展する。しかしコースは「(T-30.VI.1) 怒りは決して正当化されない」と言っている。なぜ怒りは正当化されないのか?それには救済の秘密が関わっているからだ:「(T-27.VIII.10) 救いの秘密は、"あなたは自分で自分にこれを行っている"ということだけである。」

(0:21) 夢のほうが君に対して何かやったわけではない。君は被害者じゃない。これは君が作った夢だ。覚えておかなければいけないのは、自分が「正しい」と思った時はいつでも自問すべきだ:「OK、正しくあること自体には何の問題もない。それが自分の(社会的な)仕事なのだから。しかし、その正しさが分離の正当化のためだとしたら?」と。

もし分離を正当化するための正しさであれば、それは投影だと言える。そこで(聖霊とエゴの)違いを判別できるんだ。僕らは誰かに対して怒ることなく、正当化することもなく意見を伝えることも可能だ。コースで正当化されないのは分離にしがみついてそれをリアルにしようとすることだ。僕らがしなければならないのは、その瞬間に気づくことだ。するといい気分になるだろう:「ヘイ、僕は別に正しくある必要なんてないんだ、正当化する必要もないんだ」ってね。

 

Q&A

ゲイリーが後半ずっと離席してたので、今回のQ&Aもぜんぶシンディ一人で頑張ってました。今回は12の質問のうち2つだけピックアップしてみます:

 

Q1: 内なる感覚というのは常に導き手だと思っていいんでしょうか?私が「すべて上手くいってるわ、人生はなんて素晴らしい…」なんて感じでイイ気分のとき、実はエゴからそう思ってる可能性もありますよね?時々、自分がハッピーなとき、何かを否認しているんじゃないかと思ったりします。これについて何か話して貰えませんか?

シンディ:良い質問ですね。感覚というのは導き手にもなり得ます。そして自分が心のどこにいるか -- 聖霊を選んでいるかエゴを選んでいるか -- を識別させてくれます。「感覚なんか信じちゃダメ」なんて、誰にも言わせないでくださいね!コースは心を変えるためのものですが、同時に自分の感覚を否定しないことです。それは無価値な否定になってしまいます。

もしイヤな気分になったら、それは明らかにエゴです。その感覚を用いて、自分がエゴを選んだことを認識できます -- 選び直すために。だから感覚というのは、あなたの心の現在地を教えてくれる、素晴らしい導き手になり得るのです。そして(質問にあったように)良い気分のときがエゴのトリックであることもあります。コースは「(T-18.IV.2) あなた自身の善意を信頼してはならない」と言ってます。もしあなたの気分の良さが、誰かの代償によってもたらされているのであれば、それはエゴの罠です (誰かがイヤな気分になることによって良い気分になるとか、誰かに復讐することで良い気分になるとか)。その気分が示していることは「他者との違いをリアルにしている」という事であり、それは投影なのです。こうした誘惑には気をつけないといけません。

「自分はどうしてイイ気分なのか?」について心の動機をよく観察してみる必要があります。もしその気分の良さが、兄弟との同等性を反映することから来るものであれば良いのです。それは、誰かを悪者にしたり違いを見たりせず、全ての人は「愛を求めているか、愛を表現しているかのどちらか」だと見ることです。そして私たちの全てに同じ「決断の主体」が宿っていて、誰でも同じ選択ができるという意味で同等だということです。このようにして、その気分の良さが「本物」であるかどうか(心のどこから来ているか)を見極めることが大切ですね。

 

Q3: 私にはお金を貸している人がいます。相手を赦しながらも、自分のお金を返して貰うよう求め続けることは可能ですか?実相のレベルにおいては何も起こっていないと知っていますが、行動のレベルではお金を返して貰いたいです。これらを両立させるにはどうしたら良いですか?

シンディ:私もそんな経験があります。この世界のレベルではそういう事が起こります。私たちから盗むように見える人もいますし、お金を借りる人だっています。職場環境で然るべき職務を果たさない人もいます。あなたが管理職で、仕事をしない部下がいることもあるでしょう。

世界のレベルでこうした事に普通に対処することはできます -- 相手が誰であっても、それらの人々を非難して間違いを認めさせるのではなく、聖霊のやり方を反映した形でごく普通に対応することは可能です。

さて、誰かがあなたからお金を借りている場合、あなたは愛ある形で赦しながらも相手からお金を返して貰うことはできます。ここで大事なのは「何のために」お金を返して貰うのか?その目的は何か?ということです。あなたがお金を返して貰いたいのは、エゴの必要性からですか?欠乏の感覚からですか?誰かに罪悪感を投影して「お金を返してくれないから私の平安が奪われた」と非難するためですか?

覚えておくべきは「このことを自分が相手に投影しているのではないか?」ということです。その投影をいったん心に戻し、「この人がお金を返してくれようがくれまいが、私は平安でいられる」と言うことが鍵なのです。なぜなら、真実には何も起こっていないから。そこには私からお金を取っていった誰かなどいません。「私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。(L5)」のです。動揺するのはエゴの解釈を選んだ時だけです。

赦しは心のレベルで行うことができます。と同時に、その状況を聖霊の目的に使うのであれば、私たちは愛を反映した方法に導かれます。なので、赦しながらもお金を返して貰うこと自体には全く問題はありません。ただ、それがどの目的から来ているのかについては自問するようにしましょう。赦しを実践しながらも、夢の中で「普通」でいることは可能なのです。

 

*****

今回のQ&Aで、Q1の「否認」に関する質問が、10/14にJACIMで公開されたばかりのビデオ「V#40: 「否認」の見分け方」の内容とちょっと重なるのがタイムリーだな〜と思って聞いてました。イヤな気分になったら明らかにエゴだと分かるのだから感覚は大事、というシンディの回答は簡潔で分かりやすく、役に立ちそうです。

 

ちなみに博士のビデオの方は「自我を否認している時と、自我から離れつつある時の違いを見分ける方法」について詳しく話してます。「なぜ自分が自我を選択したのか理解する(=価値判断せずに自我を見る)」事が大切であり、自分が見たくないものに目を塞いで聖霊に丸投げするのは否認ですよ、という内容でした。相変わらず、深い。