ACIMタッチアンドゴー

奇跡のコースに復帰してのあれこれ

ゲイリー達のオンライン講座 (25)

9/13。

前回のQ&Aがずれこんだ関係で、9月は3回オンライン講座をやることに。日本時間9/13に開催された分が、9月のテーマ The Basis of the Dream, from ACIM Chapter 18, Section II の前半となります。

 

講座の本編

2人とも最近、テキストの読み上げ→解説というやり方になってきて、話があまり脱線しなくなったような気がします。部分的に心に残ったところをメモします。

 

[シンディ]

(0:30) あなたが夢の登場人物に演じさせています。私達はどうやってこの登場人物を演じさせているのでしょう?それは、私達が彼らの機能を「解釈」することで演じさせているのです。彼らの振る舞いそのものは台本通りなのだから変更できません。変更できるのは自分の見方だけです。

世界がとっくに終わっていて、私達がそれを心理的に振り返っているだけなら、あなたが日常的に見ている人影はすでに書かれた台本通りに振る舞っていることになります。たとえば、誰かがあなたを攻撃するということもすでに台本に書かれているわけです。

そこで問われているのは、私達がその振る舞いをどう解釈するかということ。彼らが攻撃していると見ることによって、我々の両方が有罪であることを強化するのか?その行為を愛を求める叫びと見るのか?それによって、同じ時空にあっても全く異なる体験がもたらされます。

(0:33) 私達の平安を乱すものは何であっても聖霊の教室となります。より深く夢に根ざすのではなく、夢から目覚めるためには、すべての攻撃は助ける求める声 / 融和を求める声と見ることです。そうすれば、エゴの台本の代わりに聖霊の台本を生きることになるでしょう。

必要なのは恐怖の夢から幸せな夢へのシフトです。それは夢の中で突然、望みがすべて叶うという話ではありません。夢が変化して自分のニーズを満たすわけではないのです。そうではなく、あらゆる出来事を赦しの目で見ることによって、私達の中に元々内在していた(けれど忘れていた)喜びがよみがえります。

 

[ゲイリー]

(0:59) 平安というのは人々が考えているより重要だ。ジェイダ・ピンケット・スミス (ウィル・スミスの妻)が「幸せですか?」と聞かれたとき、彼女はこう答えた。「私は幸せは欲しいものを手に入れることだと思っていました。だけど幸せとは平安だということを学んだのです」これは真実だ。コースは「静かな心は、小さな贈り物ではない。A tranquil mind is not a little gift.(M-20.4:8)」と言っている。

その平安という立場からであれば、さまざまな事が可能になる。聖霊にインスパイアされ、素晴らしいことに導かれるようになる。あなたがそれを作り出す必要はない。ただそれが起こるんだ。あるとき誰かに出会って、彼らが助けてくれたりする。彼らは義務でそうするのではなく、彼らが望んでそうしてくれるんだ。君たちはそのために出会う。そうした愛ある出来事もすでに台本に書かれているんだ。

 

Q&A

今回は10問のQ&Aがありました。 ちょうど先の博士のエントリ(苦手な同僚の件)と重なる質問がひとつと、パウロに関する興味深い証言があったので2つピックアップします。

 

Q6: オフィスで働いているとき、会社の規則や倫理に従わない従業員を見かけます。そのような振る舞いが自分の仕事にも影響するので、彼らに直接(あるいは上司に)そのことを指摘すると、当然のように彼らは怒り出します。こんなとき、どう反応したらいいですか?

シンディ:そのような状況にあるとき、あなたがどう振る舞うかは「どちらの教師と共に考えているか」に左右されます。このときレベルの混同に気をつけましょう。オフィスにいるなら、普通に仕事をしなければなりませんので。「何がうまく行ってなくて、どうすればうまくいくか」を、同僚に罪悪感を抱かせることなしに、愛ある方法で伝える事はできます。(中略) 彼らが怒っているとしても、あなたは彼らの態度に責任はありません。あなたが正しい教師(愛と赦し)を選ぶなら、その状況や彼らの態度に拘泥せず「自分は正しい心にいるだろうか」と問いかけてみてください。

ゲイリー:テキストの「誤りの訂正(T-9.III)」を読んでみてほしい。「他の自我の誤りに対する自我の目敏さは、聖霊があなたに身に着けさせたい種類の警戒とは異なる」と書いてある。他の人を間違いを正すのは君の仕事ではない。

たしかに彼らの態度があなたの仕事に影響を与えるのであれば、上司に報告する必要はあるかも知れない。しかし誰とも対峙する必要はないし、そんなことをする価値はない。ただ対立を生み出すだけだから。あなたの仕事は赦しであり、他者の間違いを見過ごすことだ。だけど仕事の邪魔になるのであれば、その事を指摘するのは普通の行動だといえる。その事について深刻になりすぎない事だ。

もうひとつの方法は、あなたが会社のルールを遵守する姿を見せることで良い見本になることだ。彼らはそれに気づき、あなたからポジティブな影響を受けるだろう。これはひとつの提案に過ぎないけどね。とにかくコースは赦しのものだということだ。

シンディ:そうです。コースは確かに赦しのものだけど、同時に、世界での体験を否定するものではありません。あなたが飛行機のパイロットだったら乗客にはルールに従って貰わないと困るし、もしあなたが外科医で他の医師が手順に従わずに患者の命を危険に晒すような場合は、この世界のレベルにおいて当然それを注意すべきでしょう。だけど相手の間違いを糾弾することなしに、それを伝えることは可能です。聖霊と共に行えば、あなたの表現は愛からのものになるでしょう。

 

Q8: パウロは、トマスなどJを理解していた使徒たちと会ったことがありますか?彼がモーセの律法に従う教えを説いたことは、Jが愛と赦しを強調したことと相容れない気がします。

ゲイリー:パウロはちょっと複雑なんだ。僕はパウロと話したことないし、僕らがパウロを見た時、パウロキリスト教徒を迫害する側だったからね。彼はキリスト教徒が嫌いだったので、我々を迫害したし時には殺害もした。だから、彼のダマスカス途上での体験(いわゆるパウロの回心)は葛藤を伴うものだった。彼は罪悪感に苛まれるあまり奇妙な体験をした。なんと聖霊に打たれて盲目になったと言うんだ。だが、それは聖霊がしたことではない。聖霊は人々を打ちのめして盲目にしてまわったりはしない(笑)。彼はそういう葛藤を体験したが、なんとかそれを乗り越えた。だがそれは十字架刑から20年も経った後のことだ。

パウロは当時サウロという名だったが、実際には彼はJに会った事は一度もない。彼は独自の神学を作り上げた。こんにちキリスト教と呼ばれている教えはパウロのものであって、Jのものではない。そしてパウロは確かにモーセの掟を重視した。それは全くJの教えではない。

そんなわけで、僕が見たときのパウロは迫害者だったので、僕は彼に見つからないように屋根裏みたいな所に隠れていたし、決して彼に近づこうとはしなかった。当時の彼は血に飢えた感じの性格だった。そんな彼がのちに回心を遂げたのは確かだが、彼はJの教えを理解していなかった。ヤコブとペテロが彼を気に入ったのは、回心後のパウロが非常に雄弁な語り手であり、素晴らしい書き手だったからだ。パウロは素晴らしい手紙を記して各地の教会に送った。というわけで簡潔に答えるなら、僕はパウロには会ってなくて、パウロもJに会ってなくて、パウロが初期の教会で脚光を浴びるのはもっと後になってからだった、ということだ。

 

*****

今回のQ&Aで、困った同僚についての質問があったので、たまたま一つ前に投稿した「苦手な同僚についてのQ&A」と重なるのがタイムリーだなぁと思いました。似たような質問について、博士の回答とゲイリー達の回答を見比べることができるなんて滅多にないので。

 

個人的な印象では、博士は主にレベル1のレイヤーで話をしていて、ゲイリー達はレベル2の対処法を交えながらアドバイスしている感じでしょうか。どちらがより役に立つかは、受け取る側次第かもしれないけど、レベルの違いを認識していれば両方とも役に立つアドバイスだと思いました。

 

ちなみに博士は「価値判断を手放すこと」、ゲイリー達は「他人の間違いを見過ごすこと」と表現していますが、両者とも煎じ詰めると同じ意味です。でも、その時の状況よって、前者の言い回しが心に響くこともあるし、後者のほうがしっくり来る場合もあると思うのです。だからこそ何度も何度も、違った言い回しで同じ事を繰り返し教えてもらうことは大切なんでしょうね。