ACIMタッチアンドゴー

奇跡のコースに復帰してのあれこれ

不可能を描いた天才画家 (前編)

1/7。

ゲイリー達が絶賛する肖像を描いた天才画家アキアナ。彼女のすごさが分かる自伝的動画があるので紹介します。24分ありますが幼少時代の貴重な8mmフィルム動画などが多く入ってて、言葉では伝わりきらない事まで良く分かると思います。

以下、内容をざっくり日本語で要約するにあたり、こちらの自伝記事も参考にしました。(カッコ内はトベのひとりごとです)

 

 

"Painting the Impossible" by Akiane Kramarick
「不可能を描く」

(アキアナの一家はどん底の貧乏生活をしていましたが、彼女が生まれた日に、誰かが玄関に古い8mmフィルムカメラの贈り物を置いていってくれたそうです。昔の白黒映像はそのカメラで撮影されたものと思われます)

極貧の幼少時代
(0:47) 1994年、私の家族は北イリノイ州のトウモロコシ畑の端の、貧しい小屋に住んでました。父はシカゴのゲットー出身で、母はリトアニアソビエト政権から命がけで逃れてきた移民でした。
母はこの自宅で、助産師や医師の助けなしに自力で私を出産しました。(2人の兄と同じように)。そして私はアキアナと名付けられました。
私たち兄妹はカビだらけの床で遊びました。家にキッチンは無く、家具もほとんどありませんでした。だから自分たちでおもちゃやゲームを作ったり、学校ごっこをしたりしました。

家の外に安全を感じることは出来ませんでした。隣人のひとりは殺害されたし、他の隣人はうちの犬を射殺しようとしました。隣の人が家のすぐそばでゴミを燃やして火事になり、消火しなければならない事もありました。うちの井戸の飲み水が毒で汚染された時(おそらくトウモロコシ畑に空中散布された農薬で)、父は死ぬほど体調を崩しました。しかし医者にかかるお金はありませんでした。
母が様々な方法で家計を助けようと奔走するあいだ、兄たちが毎日私の面倒をみてくれました。母は私たちを連れて2フィートも積もった雪の中を歩き、一軒一軒に商品(食用の藻)を売ってまわりました。すると1年もしないうちに母のビジネスは伸びてきたのです。父の容態も少しずつ回復し、母のビジネスは非常に成功をおさめました。

私たちはミズーリ州の新しい家に引っ越しました。10,000平方フィートもあるフランク・ロイド・ライト設計の大邸宅です。私の最高の思い出はその家で暮らしていた時のものです。(ここから映像がカラーになります。ほんとに大豪邸でびっくり)
私たちは生まれて初めて自転車に乗り、敷地にある湖で釣りをし、屋内プールで泳ぎました。自分たちで音楽をつくり、食事の支度をしました。近くに親戚も友達もいなかったから、兄たちが私の親友でありメンターでした。そして両親は私にとって真のお手本でした。

 

幼少期の霊的ヴィジョンと神隠
(5:47) 私は4歳の頃から、強烈な「天国」の夢やヴィジョン(霊視)を見始めるようになりました。母は無神論者でしたが、私の天国の話を何時間も聞いてくれ、それが本当に私の体験したことであると信じてくれました。
私は夢やヴィジョンで見て覚えたことを全て絵にスケッチしました。特に、私に近しい2つの聖なる存在がいて、そのうち一人目である私の守護天使を描きました。だけど、二人目の顔(これがイエス)を記憶から描こうと試みるたびに、それは消えていってしまうのでした。

父の健康が回復すると、母は突然ビジネスをやめて大邸宅を売りに出し、皆を驚かせました。母はもっと私たちと過ごす時間を持つために -- 特に私との時間を持つためにそうしたのでした。母はだんだん、私が見たものが本物だと信じるようになっていったのです。(。。。と、さらっと言うけど、普通に考えたらそれほどの裕福さをもたらしたビジネスをきっぱり手放して家族と過ごす時間を選ぶなんて、アキアナの母親も相当すごい人だと思います。この頃、母親はアキアナから聞いた話の詳細をノートに取っていたそうです)

私が5歳ごろのある日、説明出来ないことが起こりました。私が突然行方不明になったのです。誘拐が疑われ、小さな町で何百台もの車が捜索のために停められましたが、誰も私を見つけることはできませんでした。私はまるでレーダーから忽然と姿を消してしまったかのようでした。(その時、実はアキアナ自身は神秘体験をしており、あらゆるものを含む全的な視点となってこの一部始終を観察していたそうです)
私の写真が関係機関から配布され、捜索に何時間も費やされたあと、私は大勢の目撃証人たちが見ている前で、再び姿を現しました。警察も私の家族も一体何が起こったのか誰も理解できませんでした。だけど私は知ってます。あのとき私が居たのは、この地球ではなかったということを。

その不思議な事件のあと、私はパステルで描くことがやめられなくなり、しばしば徹夜でスケッチしました。私は時々アート展に参加し、絵のコンペに応募したりしました。だけど結果はガッカリするだけでした。
そのころ近所の公立小学校に通ったりもしました。先生の1人は、私が塗り絵の線をいつも修正してしまうので、いつも私に腹を立ててました。でも私は、その線がぜんぶ間違っていると思ったから直したのです。同じ頃、私のヴィジョン(霊視)は消えてしまいました。それと同時に、絵を描くインスピレーションも全て失ってしまいました。

3人目の兄弟が生まれたとき、私の家族は破産寸前でした。そして私たちはまた引っ越さなければなりませんでした。2001年の9月11日 (たまたま同時多発テロの日)、私たちはコロラド州で小さな家を借りました。ロッキー山脈で暮らした日々で、問題の起こらない日はありませんでした。弟が命に関わる病気になったりもしました。
私は絵描きに戻ろうとしたけど、どうしても描けませんでした。そして私は詩を書くことにフォーカスしはじめました。

 

8歳で "Prince of Peace" を描く
(10:43) ほどなく、父がアイダホ州で仕事を得たため、私たち家族はまた引越ししました。そして私は8歳で自宅教育(学校に通わないこと)を決めました。家族もその決断を応援してくれました。すると、私のビビッドなヴィジョン(霊視)が突然戻ってきたのです。私の絵に対する情熱も同時に戻ってきました。

私は油絵の具やアクリル絵の具と恋に落ちました。毎朝4時に起きて絵を描き、自分自身から学んでいきました。私の原初のヴィジョンのひとつが何度も心に戻ってきたけど、私はそれを描くことは不可能だと知っていました。それでも、私はそれを描くことに挑戦したいと思っていたのでした。
私は何ヶ月も、そのヴィジョンで見た姿のモデルとなる人をあちこちで探しまわりましたが、自力では見つけ出せないと心のどこかで知っていました。そこである朝、丸一日かけて祈ろうと決心したのです。「どうかモデルとなる人物がうちの玄関に導かれますように」と。

次の日の昼、ドアベルが鳴りました。知り合い女性の1人が、友達を紹介するために立ち寄ってくれたのです。彼女はその友達の容貌が私の描きたい顔に適しているのではないかと考えたのでした。その男性は私の知らない人でしたが、繰り返し現れる記憶の中のイエスにそっくりだっただけでなく、本物の大工でもありました。私は言葉を失い、謙虚な気持ちになりました。(注:イエスが大工の息子というのは聖書の伝えです)

そして40時間ぶっ続けで肖像画を描き続けたあと、私は指が動かせないほどでした。40時間が40年のように感じられました。まだ描き残したものはたくさんあったけど、私は疲れ切ってしまって続けることが出来ず、そこでやめなければならなかったのです。
(これが8歳のときの名作 ”Prince of Peace” が描かれた経緯です)

 

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アキアナちゃんの波乱万丈の物語はまだまだ続きますが、前半はここまでにしたいと思います。続きは次回〜!(後編につづく)