ACIMタッチアンドゴー

奇跡のコースに復帰したのが奇跡

博士のお見舞いアドバイス

5/29。
退院後、自宅療養でのんびりする間もなく、術前のリノさんの見舞いに行くことを目標に、ウォーキングしたりして体力回復をはかっています。そもそも、ほぼ他人であるリノさんに会いに行くべきかどうか?一般論としてはNGでしょうけど、まあ、出会った状況がかなり特殊だったので、行かないという選択肢はもう無いかな。

それより大事なのは、私が何のためにリノさんに会いに行くのかということです。そのためにここ何日か、ワプニック博士のTrue Empathyの抜粋を読み直して復習したりしてました。今回は、病気の友達に対して思うことの注意点や、お見舞いに行くときのアドバイスに絞って訳してみます。

まず、病気の友達を励ましてあげたいと思うような、一見善意のように見える気持ちの中にどんなエゴが潜んでいるか見ていきます。。。

The ego wants us, as we see repeatedly, ... (Part 4)
これまで繰り返し見てきたように、エゴは身体を現実にし、病気や苦痛を現実にしたいのです。「あなたが苦痛を味わっているから私が何かしてあげなければ」と思うとき、実際には私はあなたに何と言っているのでしょう?「あなたと私は違う。あなたと私は分離している。あなたは苦しんでいるけど、私は苦しんでいない」そう言っているのです。そして私たちはエゴのバイブルに書かれた四つの声明の通りに進んでいきます。1)私たちは分離を見ている。 2)そこには違いがある:あなたは苦しんでいて、私は苦しんでいない。3)私は判断する -- 私はあなたが持っていないものを持っているから、あなたにそれを授けたい。なぜって、私は素晴らしい人だから。4)以上の事が、結果的に攻撃を形づくります。あなたが持っていないものを私が持っているという事が意味するのは、私のほうがあなたよりうまくやっている、という事だからです。しかし真実は、私たち両方ともキリストとしてひとつであり、お互い全く同じ愛をもち、同じ霊的アイデンティティをもち、同じ平安を持っているのです。そこには違いなどありません。もし私があなたの苦しみを現実にしてしまうとき、私は身体を現実にし、私たちが違うものだと見ているのです。それこそまさしくエゴが欲していることです。

When we feel sorry for someone... (Part 4)
私たちが誰かを気の毒だと思い、その人の痛みに共感するとき、私たちが相手に暗黙のうちに(ときに明示的に)伝えていることがあります。「ああ、なんて可哀そうなんでしょう。あなたに起こったこれこれの酷い出来事をごらんなさい。これらのひどい痛みや苦しみは、あなたのせいなんかじゃありません。私はとても心を痛めています」と言うとき、実際にはこう言っているのです。「あなたには人生を支配する力はなく、心を支配する力もない。あなたに起こったことは全く手に負えないことなのだから、あなたの責任ではあり得ない」


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初めてワプニック博士のこの解説を最初読んだとき、ガーン!と思いました。一見、思いやりの言葉のように聞こえるけど、相手を気の毒に思う気持ちが、却って分離を強めてしまうので注意してくださいね、という指摘です。もし面会に行ってそういう考えが湧いてきたら、ただちに聖霊コールしなければ。
True Empathyには他にも病気や困難にある人と接する時の注意点や、相手をどのように見ることが望ましいのかなどについて豊富な説明がありますが、個人的に一番インパクトがあったのは上記の部分でした。

ぶっちゃけ、私自身も退院したとはいえ、病気が治ったとか罪悪感が癒されたというわけではありません(手術で取っちゃっただけだし、まだ首も自由に動かせないし)。なので、私がリノさんを見舞う時には甲状腺摘出の手術仲間というスタンスになるかと思いますが、それでも一見、彼のほうが症状が重そうだったり、手術の規模が若干大きかったりするので、やっぱり相手をどう見るかについては注意が必要な気がします。

では、どうすればいいのか。True Empathyの最後のほうに、お見舞いについてワプニック博士からの素敵なアドバイスがあるので、それを心に留めておきたいと思います。

Applying this again to the situation of... (Part 22)
再びこのことを、病院にいるあなたを私が訪れるという状況で考えてみましょう。あなたは痛みでたいそう苦しんでいます -- 以前の私だったら、病室に入るなり動揺したことでしょう。しかし、そこで私はこの簡単なエクササイズを実行します:私は一旦自分の心に戻って、次のことに気づきます。「今こそ、私一人だけで病室に入っていく代わりに、自分の隣にイエスを伴って病室に入ることもできる」と。
あなたが神の愛を防衛するために病気を選択し、世界にそのような意味を与えている事も分かります。しかしいま私は、あなたと私がひとつであると理解できる心の状態にあり、私たちが神の愛の中でひとつであるがゆえに、その神の愛が私を通して流れるようにします。私もあなたが作った象徴(病気)を用いますが、それに異なる意味を与えるのです。あなたはその象徴(病気)を、神を除外するための方法として用い、自分自身を攻撃するためや、私に罪悪感を与えるために使いました。そこで私は、その同じ象徴(病気)を、神の愛の表現 --「あなたがどんな間違いを犯そうとも、私からあなたへの愛に影響が及ぶことはない」-- として用いるのです。
その結果として、私がお見舞いに行ってすることといったら、最も普通の人々がするのと同じことをする事になるでしょう。私はあなたにいたわりの言葉、励ましの言葉、優しい言葉をかけるでしょう。あなたに花束やキャンディを贈るでしょう。あなたにお医者さんを呼んであげるでしょう。
私は他の人々がやるのと全く同じようにお見舞いに行くでしょう。しかし、その目的は全く違ったものです。なぜなら私はそのお見舞いを、あなたの夢に共感するための手段として用いることはしないからです。私はそれを、神の愛の表現の媒介として用います。私たちがひとつであり、共にその愛を共有していることを認識するためにそうするのです。


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私が感動したのは、ワプニック博士も行動上は普通の人々と同じように花束を持って、優しく励ましの言葉をかけにお見舞いに行くという点でした。ですが、病気で臥せっている友達に会うとき、その病がどんな間違いから生まれたものであっても、決して神の愛には影響しないということの象徴として見るというのです。こんなに素敵なお見舞いのアドバイスが他にあるでしょうか。

。。。と感動するのはいいですが、やっぱり博士はだいぶレベル高いことを言ってるので、ポッと出の私がいきなりそういう心境になれるかと言うと、うーん、たぶん無理があるだろうなあ。(^^;)

でも、できるできないは別として、理想形を心に抱いてお見舞いに出かけるのはアリだと思っています。退院後の兄弟との初レッスンだと思って行ってこよう。