ACIMタッチアンドゴー

奇跡のコースに復帰してのあれこれ

FACIM読書会 2月 JTT Ch.7 (その1)

2/15。

今月はバタバタしてて、予定してたCh.7を読書会直前まで読み終わってなくてドキドキでした。お尻に火がついてから慌ててグワーッと読んだ感じだったかも。といいつつ、ぶっちゃけ何の縛りもノルマもないゆる〜い会なので、読むのは1ページでもいいんですけどね。(^^;)

本来なら博士本には交響曲のようなBGMがお似合いなんでしょうけど、今回はテンションを上げるために重低音のダンスミュージックをガンガンかけっぱなしで「ドン♪ドン♪聖性は...ドン♪ドン♪赦しを...」などとイケイケモードで要約していた次第です。(このミスマッチさが思ったより楽しかったのは秘密)

今回、私からはCh.7の要約をいつものように2分割しようと思います。

 

教材:Journey through the Text of A Course in Miracles (現在地:Vol.1)
※電子本のePub→Kindleに変換のうえ、Kindle版のNo.と紙本のページを併記してます。

  

★Chapter 7 -- The Gifts of the Kingdom  p177 (No.6062)

 

The Oneness of God  p177 (No.6070)

No.6107/p178 From that original split we continued to split off and fragment...
・私たちは原初の分離からずっと断片化し続けたが、天国はもちろんそうなってはいない。
・この世にいながら天国の一体性を理解することはできないが、その完璧な統一性は、私たちの二元的な世界においても「赦しと癒し」を通じて反映され得る。愛の延長は、私たちの赦しの決断を通じて肉体のある世界に表現される。
・それは、私たちの心のなかの聖霊の顕現により障壁が取り除かれ、聖霊の愛が私たちを流れるままにするということ。そのようにして愛の延長は「個別の利益」という信念を取り消す。これが癒しの意味。

No.6162/p179 Within the Trinity, there is no first, second, or third Person. ...
・聖なる三位一体(T-7.I.7:5)には、最初の/次の/三番目の誰かというものはない。Jがキリスト教の三位一体説の言葉を用いているのは、この世界のため。
・これらは単なるシンボルに過ぎず、真実においては父や子や聖霊といったものはない。(この世界における)”私たちの経験”のほうが三位一体的なのだ。この言葉の真の目的は、シンボルを超えたところにある神の愛の一体性の体験へと私たちを連れていくこと。

 

The Ego’s Fear of the Atonement  p181 (No.6224)

No.6226/p181 The only way to make sense of this course, theoretically and...
・理論的にも実用的にも、このコースの辻褄が合う唯一の方法は、「恐れ」こそが、この狡猾な戦略の源であると認識すること。
・世界の全ての問題 — 集合的な問題である戦争/飢饉/死といったものから、個人的な問題である日々の生存まで — は、私たちに「問題は心の外側にある」と納得させるための自我の計画。

No.6306/p184 This is the source of the ego’s rageful fear: it does not like to...
・自我の最たる恐れ、それは「無」と呼ばれること。私たちは、自我を「邪悪である/凶悪である/弱い/罪深い」などと呼ぶことは出来ても「無である」とは呼べない。もしそうなら、私たちも「無」という事になるから。
・私たちの分離し続けていたい部分(自我)は、その実在性や強さを証明するため、延々と他者への反応を必要とさせる。だがJを私たちの目として見るならば、一見して堅固に見える自我の思考体系は看過され、その本質である非実在性が見えてくる。

No.6314/p184 Jesus is describing what we have all done. If we read these...
・(T-7.VI.11:6-11) ここでJは私たち全員が何をしてしまったかを説明している。もし私たちがここに書いてある言葉を注意深く読むなら、Jが「私たちは存在しない」と言っている事に気づくだろう。自分たちが暮らしている世界や肉体は存在しないのだと。
・この考えは、私たちが信じているあらゆる物事について真っ向から対立する。だからこそJは何度も何度も繰り返す必要があった。

No.6333/p184 Jesus is again referring to the principle that what we give we...
・(T-7.VIII.1:5-9) Jはここでも「与えることと受け取ることは同じ」という原理について言及している。覚えておくべき重要なことは、彼は物質的な話をしているのではなく、考え(idea)について話しているということ。
・もし私たちが愛を与えれば(延長)、それが私たちの心の中で強化される:想念はその源を離れない。
・もし私たちが罪悪を与えれば(投影)、私たちは神から分離するという罪を犯したという信念を強化する:想念はその源を離れない。

No.6370/p185 For example, the Holy Spirit does not take away our special...
・例えば、聖霊は私たちの特別な関係を取り去ったりはしない。聖霊はその関係を変容させるのだ。言い換えると、私たちの外的な状況(形態)を直ちに変えることではなく、私たちがそれに対して与える意味(内容)を変えるよう求められている。
・このようにして、聖霊の非特定的(全方位的)である赦しが、特定の形態(個別的)である赦せない関係へと翻訳される。この実践を続けるにつれ、私たちはそれを全ての関係へと普遍化するように助けられることになり、あらゆる人々の違いは無関係であることが分かってくる。

No.6461/p188 This is the all or none principle of A Course in Miracles, that...
・(T-7.VII.10:10 & 11:1-3) これはコースにおける「全てか無か」の原理に則している。つまり「全ての」神の子を赦すのでなければ、「誰も」赦したことにならないということ。とはいえ、(この世界での)実践においてはもちろん、赦しのプロセスは段階的な積み重ねとなる。
・それでも心に留めるべきは、神の子が全的である以上、その一部を拒絶することは、その全てを拒絶することに等しいということ。「一体性のうちにある一なる子は、数ある部分の総和を超越したものである(T-2.VII.6:3)」の意味とは、神の子はその全一性によって定義されるものであり、断片の合計によってではない、ということ。
・自我にとって赦しは天文学的に大変な課題だが、実際には赦しは大きな慰めである。私たちは全ての人々を赦す必要はないのだ。なぜなら1人を完全に赦すことは全ての人々を赦すことと同じだから。

No.6564/p191 Here is the ego’s lie exposed, for it has promised us every...
・「聖霊に従いなさい。そうすれば、あなたは自我を手放すことになる。しかし、あなたは何も犠牲にしない。(T-7.X.3:8-11)」
・ここで自我の嘘が露呈することになる。自我は私たちの「自由」への選択によって全てが手に入ると約束してきた。だが実際には、私たちが「全て」であるものを「無」と交換したことは気づかせない。そして「神への恐れ」という存在すらしない葛藤(従って解決される必要もないもの)が生まれた。だがそれは単に選び直されるべきもの。

 

The Ego’s Strategy  p191 (No.6574)

No.6628/p193 A Course in Miracles speaks of the ego as if it were a person...
・コースはまるで自我が人格を持っているかのように描かれている(不安を計画して防衛を企むような)。しかし実際には、自我というのは単に、神から分離した子の考えに過ぎない。
・Jは擬人化したシンボルを使って心の動きや感じ方を説明することにより、私たちが分離の想念をもっと客観的に見ることができるよう助けている。

No.6675/p194 The only reason this madness of separation survives, along...
・分離という狂気(およびその結果である狂った世界)が生き延びている唯一の理由は、そのことに目を向ける者が誰もいないから。
・もし私たちが本当にその狂気をありのままに見たなら、私たちは決してそれを選ぼうとはしないだろう。だからこそJは、こんなにも言葉を費やして自我の戦略を暴露しようとしているのだ。

 

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。。。というわけで、Chapter7 (その2) に続きます!