ACIMタッチアンドゴー

奇跡のコースに復帰してのあれこれ

愛を求める叫びとはなにか

2/13。

先日のFACIMニュースレターのリンクを辿ってみたら、今月のトピックとしてLove from the perspective of A Course in Miracles (ACIMの観点からの愛とは)が紹介されてました。ここには「愛」をテーマにした博士教材からの抜粋が5つ載ってて、どれも興味深い内容だったのですが、ひとつ気になったものをピックアップしました。

 

それは冒頭の「誰もが怯えた子供であり、みな愛を求めている」と題された一節で、コース界隈でよく言われる「愛を求める叫び」についての分かりやすい解説でした。

正直、コース界隈で人々の言動について「愛の表現」または「愛を求める声」と表現されてたりするとき、なるほどそんなもんか〜と深く考えずにおりました。まあ、「愛の表現」の方はマザーテレサなどを思い浮かべればなんとなく分かるとして。。。他方、他者の攻撃的で憎たらしい姿勢などについて「それは愛を求める叫びなんだ」なんて言われても、正直あまりピンと来てなかったというか。(^^;)

 

だって例えば、目の前でパワハラ上司が明らかな人格否定(暴言)を繰り返して部下を攻撃している時とか、パパリンが意味不明な理由で癇癪起こして荒れ狂ってる時とか、「これのどこが『愛を求める叫び』なんじゃ〜!むしろ愛を遠ざけとるやんけ〜!」と思っちゃったりして。。。(反射的にw)。

 

だけど、こうした攻撃的な言動がなぜ「愛を求める叫び」に相当するのか、博士がその根拠をここで明確に述べてくれていました。以下、自分語に変換:

 

Everyone is a frightened child who wants to be loved より

誰もが怯えた子供であり、みな愛を求めている
(前略)
誰もがみな、愛を求める怯えた子供であり「疲れ果てて、もはやひとりでは進めない(T-18.VIII.9:8)」のです。誰もが、です。イエスは、私たちの"苦痛と疎外感"という普遍的な状態を、ワークブックの一節で痛烈に描写しています:

「あなたが住んでいるように見えるこの世界は、あなたの家ではない。心のどこかで、あなたはこのことが真実だと知っている。戻ってくるようにと呼びかけてくる場所があるかのように、あなたにはわが家の記憶がつきまとっている。しかし、あなたは自分ではその声を認識せず、その声が何を思い出させるのかも定かではない。それでもあなたは、この世界では異邦人で、どこかまったく知らない所からきているように感じている。それは、自分がここでは流浪の身であると確信をもって言えるほど明確なものではない。ただずっと続いている感覚である。時にはかすかな疼き以上のものではなく、またある時はほとんど思い出されず、むしろきっぱりと退けられているが、それでもそれは確実に再び心に戻ってくる。(W-pI.182.1)」

"愛というわが家への帰還" こそがすべての人々の切望なのだ、ということをあなたが認識したなら -- 彼らが何を言おうが何をしでかそうが -- あなたは彼らの中に傷ついた子供を見るようになるでしょう。そして、彼らの切なる望みを、愛ある慰めをもって抱きしめるほかなくなるでしょう。

(人々のなかに)"怯えていて孤独な子供を見る"ということは、人々の攻撃の背後にある苦痛を自分自身にも見させるということです。彼らの行いがどれほど邪悪で残酷であろうとも、その奥底にはやはり苦しみがあるのです。実際、苦しみがなければ誰も攻撃などしないでしょう。あなたが裁いている相手がどれほどの憎らしさであろうとも、「愛が取りあげられてしまい、宇宙の中に独りぼっちで置き去りにされてしまった...」と信じて絶望している幼な子が味わう"拷問のような苦痛"で満たされてしまったのでなければ、誰ひとりとしてそのような(攻撃的な)振る舞いや発言や考えをすることはないのです。

愛と思いやりに溢れた大人が怯えた子供に接するのと同じように、他者のなかにある疎外感の苦痛に耳を傾けてあげるなら、彼らを「もう大丈夫だよ」と安心させることになります(何であれ適切な方法で)。しかし、その子の愛を求める悲痛な泣き声に耳を傾けず、"無垢な子供"のかわりに"邪悪な怪物"を見るのであれば、その理由は唯一、あなたが自分自身のそれに耳を傾けたいと思っていないからです。したがってコースのゴールとは、私たち自身が、すべての人々 -- 被害者でも加害者でも、あなたでも私でも --の"防御壁の裏にある苦痛"に耳を傾けることだといえるでしょう。そのようにして私たちの心はすべての人々へと向かい、彼らの傷に触れて癒します。それは普遍的に愛と思いやりが伴うものです。壁とは防御のことであり、それがなければ愛が入ってくるからです。実際、愛とはすでにそこにあるもので、私たちの壁さえなければすべての人々へと自然に延長してゆくものなのです。

The Lighthouse (FACIM機関誌), Volume 15, Number 2, June 2004 に掲載された “The Secret Wall” からの抜粋

 

*****

えー。。。なんかもう、すべての人が傷ついた子供であるという表現が心に刺さって、初めて読んだとき、ちょっとウルウルしてしまったのでした。。。

しかも「すべての人が」ということは、当然そこに自分も含まれているわけで、この傷ついた子供という文脈においても、あらゆる人々について差異がないということになるのでしょう。そもそも、この世にいるかぎり自分が傷ついたという経験は誰でもあるだろうから、その感覚を思い出すのは難しくないと思うし。

 

その感覚をベースにした上での、「自分が感じたのと同じ辛さを目の前のムカつく相手も持っているんだ、この人がこんなに荒れるのは自分と同じ苦しみがあるからだ」という理解でしょうか。

そうやって、相手も自分と同じなんだ、お互い傷ついていて、お互いわが家への帰還を望んでいるんだ。。。という見方がチラッとでもできれば、腹の立つ相手に噛み付いてボコボコにしたい欲求も一瞬は鎮まるかも。。。(ような気がする!?)

 

このお話は「相手に聖性を見る」というワークブックの王道アプローチと比べるとちょっと異色かも知れませんが、やっぱり一足とびに「嫌いな相手に聖性を見る」までいくのは困難なケースもあるかと思います。そんな時に、目の前の相手を"自分と平等と見る"ための手段として、相手も同じ苦痛を持っている、という認識のほうが入りやすいことがあるかも知れません。(これも、博士が赦しのハードルを下げてくれてるひとつの方法なのかな、と思います。)

 

これはパパリンに適用しなくちゃな。。。(^^;)