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奇跡のコースに復帰してのあれこれ

マグダラのマリアによる福音書(2)

7/25。

先に紹介した「マグダラのマリアによる福音書」で、現在のキリスト教において、なぜマグダラのマリアが、よりによって娼婦だの姦淫の女だの言われる羽目になったのか?という事についての解説が興味深かったので、その箇所も紹介したいと思います。

 

そもそも、キリスト教の聖職者にとって独身主義が重要だったのは何となく分かるし、そのためにイエスに妻がいるのは具合が悪かったので意図的に伴侶としてのマリアを排除した、という理屈も分からなくはないのです。けど、その落とし所がどうして「娼婦」である必要があったのか? 救世主が愛した妻という存在を認められないなら、せめて普通の女性信奉者くらいにして扱えば良かったのでは? そこをなぜ、キリスト教的に罪深いとされる娼婦の烙印をわざわざマリアに押し付ける必要があったんだろう? そのへんの飛躍が唐突すぎて私には謎でした。

 

カレン・L・キング博士は、マリアを娼婦とする見方を後世の捏造として一蹴しています。以下、「マグダラのマリアによる福音書」からの引用です。

 

p236
 悔い改めた売春婦というこのマグダラのマリアの肖像はどこから生まれたのか。こうしたヨーロッパの一般的伝統に反して、マグダラのマリアは決して娼婦ではなかった。東方正教会の伝承はこれまで、彼女を娼婦として描写することは決してなかった。彼女は、『マリア福音書』では、初期キリスト教史における彼女の実際の立場に比較的近い役割において登場する。彼女はイエスの最初の重要な弟子であり、初期キリスト教運動の指導者である。他の多くの弟子たちの場合と同様、マリアの人生に関する情報不足が後代のキリスト教徒たちの想像力を刺激したにすぎない。彼らは、自分たちの霊的要求と政治目的によって、彼女の歴史を物語と芸術から丹念に仕上げていったのだ。

 

また、次の箇所では聖書(東方教会)に登場する数多くのマリア達(聖母マリア含む)を引き合いに出し、マグダラのマリア以外のマリアは誰も娼婦とは呼ばれていない事についての恣意性をやんわりと指摘しています。

 

p240-241
 マリアを娼婦や姦淫の女として描く人物像は、彼女がなぜ復活したイエスの体に触れるのにふさわしくないかを説明するだけでなく、女性は霊的性質ではなく何よりも性的特性において見られるべきであるという見解の強化に役立った。こうして、教父たちにとって、この虚構は、同時に2つの問題を解決したのであった。1つはマリアに結びつけられた教えの弱体化、もう1つは指導者の役割を引き受ける女性の能力への卑劣な攻撃である。彼女は伝承の中では依然として卓越した地位を維持し続けたが、彼女の基本財産は差押えられるか、消去されてしまった。
 これまでの簡単な説明は全体として、争点になった諸問題、および、教会教父たちがそうした問題の処理のためにとった立場を正確に反映している。確かに、すべてのマリアたち -- マグダラのマリア、イエスの母マリア、ベタニアのマリア、クロパの妻マリア(イエスの叔母)、小ヤコブとヨセ(またはヨセフ)の母マリア、および、他のマリア -- にきっちりした整理をつけるのはかなり困難である。それでも、東方の諸教会がこれらのマリアの誰かを無名の娼婦または姦淫の女と混同することを決してしなかったことは注目すべきである。教会教父たちの本心やその動機に裁断を下すことは -- 神学的伝統の変遷はかなり複雑であり、関係者にとってさえ十分に明白でない場合が多いので -- 可能ではないが、彼らが意図した結果ははっきりしている。誤りにもとづく彼らのマリア像は、肉体の復活と、教会権力という男性側の特権とをひとつながりにした神学的視点の強化である。彼らはマリアをかけがえのない復活の証人として受け入れたが、女性は男性よりも生まれつき劣っている故に男性の上に立つ権威の座につくべきではないという性差別的偏見に合わせて、彼らに都合のよい福音書の読み方を構想したのである。

 

そして、当時の男性優位の文化的視点から謎の真相に迫っています。現代の女性の視点からこれを読むと「ありえない性差別だわ…」と思ってしまうのですが、もし私が当時の社会で男性として生きていたら、当然このような目で女性を見ていたのでしょう。

 

p241-242 (Part3:Ch.4 使徒集団 --マグダラのマリア)
 彼らはまた、女性を主として性的役割と男性との関係にもとづいて定義するという家父長的落とし穴に落ち込んだ。その結果、女性は処女、妻、母、寡婦、あるいは、娼婦に分類されることになる。処女と母の象徴はすでに別のマリアに振り当てられ、われわれのマリアは既婚者か寡婦なのかわからないままに、それだけで娼婦説の選択肢を利用できる状態におかれていたのだ。もしマグダラのマリアにこの役割が振り当てられていなかったならば、必ず別の誰かがその役割を果たすために創作されたにちがいないのだ。その象徴的な意義があまりにも大きすぎて、無視することができなかったのである。
 イエスの妻であり愛人であったという思惑的な論争から、マグダラのマリアが出現した可能性は早くからあったことは事実である。『フィリポによる福音書』は、イエスが彼女にしばしば接吻していたと述べ、また、『マリア福音書』では、ペトロが、イエスは他の女たち以上に彼女を愛したと断言している。3世紀の教会教父ヒッポリュトスも、エロティックな比喩的表現を用いて、マグダラのマリアを教会の花嫁に見立て、イエスを救い主という花婿として描くことにより、教会とキリストとの親密な関係の寓意として『雅歌(がか)』を解釈した。もっとも、独身主義がキリスト教の権力構造上、重要な位置に高められるにしたがい、このような類の思考に水を差されることになるのだが。しかしそれにもかかわらず、イエスマグダラのマリアとの性的関係は、西欧の歴史をとおして折にふれ表面化してきたのであり、今もなお世間の大きな怒りに、火をつけかねない。

 

なんというか、当時の女性は性的役割に基づいて定義され、処女、妻、母、寡婦、娼婦という分類しか無かったというのは大変アカデミックな表現ではありますが、現代女性としての個人的な印象で言うと「結局のところエロ目線かよ!」とツッコミを入れたくなります。(不謹慎ですんません)

 

って、どうも脱線しました。(^^;)

今回いちばん感銘を受けたのはそこじゃなくて、どちらかというと「現代の聖書研究が既存のキリスト教を揺るがしつつある」ということの方でした。どっぷりゲイリー本にハマってる立場からすると、「マリアはJの妻だった?うん知ってる、そんなの常識だよね」と思ったりするんですが、そのような見解は学術的な根拠に乏しいという事も忘れてはならないと思うので。

たとえば、マリアがイエスの妻であったという話はダ・ヴィンチ・コードの設定で使われてるし、ゲイリー本でもアーテン&パーサの証言によって我々にはお馴染みかも知れないけど、前者は単なる推理小説に過ぎないし、後者はゲイリーのオカルト妄想に過ぎないと言われればそれで終わり。こうした情報源を拠り所とするのは、世間一般からみれば、頭おかしいという事になります。

 

ですが、学術的な立場からその真相に迫ろうとする研究者もいるし、彼らも同じ結論に到達しつつある、ということは世間的な観点からも非常にインパクトのある事のように思うのです。確かに、「マグダラのマリアによる福音書」は、そのほとんどが二元論的な学術考察であり、スピ的な好奇心を満たすものではありませんが、だからこそゲイリー本の見解を補強する学術的な裏付けとして重要な一冊だと感じた次第です。