ACIMタッチアンドゴー

奇跡のコースに復帰してのあれこれ

マグダラのマリアによる福音書(1)

7/22。

だいぶ前にマリアさんにオススメされてからずっと気になってた「マグダラのマリアによる福音書」を図書館で借りて読んでみました。こちら絶版になってて中古本がプレミア価格なので入手は断念しましたが、諦めずに借りてみて良かったです。

 

著者のカレン・L・キングは古代キリスト教史の教授なので、この本はややアカデミックな内容となっています。当然ながら学術的な観点から考察されているので、いわゆるスピリチュアル系の本ではありません。しかし、マグダラのマリア福音書が異なる言語でバラバラに見いだされた経緯も興味深いし、それらの断片を繋ぎ合わせたマリアの福音書について、現在知られている限りすべての翻訳が紹介されているのも一読の価値ありです(思ったより短いけど)。また、難解な部分ついては当時の文化的・哲学的背景から詳しい考察があるので、初心者でもフンワリと福音書の全体像がつかめる構成となってます。

さらに、コースを念頭に置いて読めば、学術的な見解とは別に、一元論的な文脈で捉えることもできるように思います。(ただ、この本に掲載されている日本語版は、ギリシア語→コプト語→ドイツ語→英語→日本語...と翻訳を重ねたものだったりするので、どれほど元の意味が再現されているかは想像に委ねられる所もあるかも)

 

ちなみにマグダラのマリア福音書は、いわゆるナグ・ハマディ写本には属していません。しかしその内容は、一般のキリスト教観とは明らかに相容れないもので、謎に包まれた初期キリスト教の一端を垣間見せてくれるだけのインパクトがあると思いました。

その理由を振り返ってみると、子供の頃に読んだ聖書にさかのぼります。キリスト教的な解説によれば、マグダラのマリアは「悔い改めた娼婦」ということになってて、なんだか淫らで罪深い背景の持ち主であるかのように言われてたりするわけです。

 

その後、私の中のそんなイメージを覆したのが2003年に一世を風靡した推理小説ダ・ヴィンチ・コード」で、実はマグダラのマリアはイエスの妻だった、という大胆な設定が世界中の読者を驚かせたのは記憶に新しいところです。 
(ちょっと脱線しますが、この小説への間接的な影響を垣間見ることができるのが、有名なナグ・ハマディ写本のうちの「フィリポの福音書」。2世紀に書かれたこの古文書に、マグダラのマリアはイエスの伴侶だと記されていたことを初めて知りました。本来なら一部の学者だけの関心事だったはずのものが、大衆向けの小説や映画に取り込まれたことで、人々が長く教えられてきたマグダラのマリアの脳内イメージを塗り替えた功績は大きいんじゃないかと想像します。)

 

その後、ゲイリー本を読むに至って、アーテンとパーサが2000年前の過去生の観点から「マグダラのマリアはJの愛する妻だった」と証言した時にはショックはだいぶ和らいでました(ダ・ヴィンチ・コードのお陰で...)。その後、ゲイリー本でマリアについて数多くの言及があり、じつはマリアも(そしてフィリポも) Jと同じレベルの聖者だった事などが明かされるにつれ、少しずつ興味を持ち始めたのでした。

 

というわけで前置きが長くなりましたが、「マグダラのマリアによる福音書」p14の冒頭の一節を少し紹介します:

 

p14
 今日『マリア福音書』を知る者はほとんどいない。それは2世紀の初めに書かれながら、その後、1500年以上にわたって消息を絶ち、ようやく19世紀後半になってコプト語訳の断片写本が発見され、その一部が明るみに出た。発見時の詳細は定かでない。『マリア福音書』の記された5世紀の写本を、ひとりのドイツ人研究者カール・ラインハルトがカイロで入手し、1896年にベルリンに持ち帰ったことが知られている。20世紀に入って、さらに2つのギリシア語の断片が明るみに出たが、依然として『マリア福音書』の完全な写本は不明なままであった。入手されたパピルス写本はわずかに8頁足らずである。このことは『マリア福音書』の大半が、おそらく永遠に失われてしまったことを意味しているかもしれない。
 それでも、われわれは、これらのわずかな断片をとおして、1500年近くも知られずにきた別種類のキリスト教の存在を垣間見ることができる。この驚くほど短い物語は、イエスの教えを根源的に内なる霊的知識にいたる道として解釈し、イエスの苦難と死を永遠の命にいたる道として認めることを拒否している。それはまた、マグダラのマリアが娼婦であったとする誤った見解 -- 神学的創作の一例 -- を暴露し、他のいかなる初期キリスト教文献の中でもマリアが女性の指導者として正統な地位を占めることにたいする最も単刀直入な、説得力のある論議を提示している。


また、別の箇所では、部分的ではあるもののコースの見方に共鳴するような考察も見られます。ACIMの事を全く知らない著者が、マリア福音書を様々な角度から分析した結果、このような結論に至っているのは興味深いです↓

 

p203-204
 『マリア福音書』は、救いにあずかるには苦難をくぐり抜けなければならないとは教えていない。また、罪を犯したから苦難を受けねばならないとも教えていない。これが最終的結論である。このような神学は、怒りの審判者という神観を一切拒否する。神が邪悪な者たちをその罪の故に永遠の苦しみをもって裁いたり、あるいは、恐ろしい死をとおして人間の罪の贖いのために神の子が要求されるなどということをしない。『マリア福音書』は、神を善き方と評しているが、それ以外の表現をすべてはっきりと避けている。救済者の教えの照準は、人間をその罪の故に裁くことにではなく、苦しみと死から人間を自由にすることにむけられている。『マリア福音書』には、地獄の観念が一切ない。キリストの贖いの死、信者たちの殉教、魂にたいする裁きなどに固有の価値をおかないのは、罪といったものが存在しないからである。たとえ言葉遣いや主題において、どれほど共鳴し合うようにみえても、この神学は、他のキリスト教徒のそれとは著しく違っている。

 

なお、この本の中には、ゲイリー本でおなじみの「トマスの福音書」が数多く引用されています(パーサが言うところの、"後世で付け足された" とされる部分も若干含まれてますけど)。また、これまでなじみの薄かった「フィリポの福音書」からの引用もあるので、私みたいなド素人でもナグ・ハマディ文書について少し親近感が湧きました。
(めちゃくちゃどうでもいい話ですが、略語として「マリ福」「トマ福」「フィリ福」などと書いてあるので、見るたびそういう名前の大福を想像してたのは内緒ですw)

 

こんなに興味深い書籍が絶版状態なのは残念ですが、そもそも日本人が関心を持ちやすいテーマではないので仕方ないのかも知れません。しかしキリスト教神学が今あるかたちに形成された経緯も含めて、多くのことを考えさせられる一冊であることは確かです。

キリスト教史やマグダラのマリアに興味のある学習者さんにはオススメかも。